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日本テニス協会の歴史

日本テニス協会の前身は、1922(大11)年に任意団体として発足しました「日本庭球協会」です。1980(昭55)年に財団法人として再発足したのを機に名称も「財団法人日本テニス協会」(英語表記はThe Japan Tennis Association、略称JTA)と改めました。2012年には、財団法人から公益財団法人に移行し、生涯スポーツ、競技スポーツ、観るスポーツとしてのテニスの振興をその活動目的としています。

  1. 日本庭球協会の発足
  2. テニスを通じて国際交流をはかり、国際舞台に雄飛するには、欧米で行われているテニス(軟式と区別するため、日本ではこれを硬式と呼んだ)をプレーする必要がある、という意見が強くなり、1913(大2)年に慶應義塾大が硬式採用に踏み切り、これをきっかけに、日本での本格的なテニスへの取り組みが始まりました。

    1920(大9)年に、三井物産カルカッタ支店にいた清水善造が単身、ウィンブルドンまで出かけて、オールカマー制の決勝(現行制度の準決勝)に進出。また、三菱合資会社ニューヨーク支店勤務の熊谷一弥が8月のアントワープ・オリンピックで銀メダルを取り、同じく三井物産ニューヨーク支店にいた柏尾誠一郎と組んだダブルスでも銀メダルを獲得しました。これは、日本オリンピック史上初のメダルという快挙でもありました。

    その年の秋、当時、日本テニス界のパトロンというべき存在の実業家・朝吹常吉氏が夫人とともに外遊の途中、米国テニス協会(USTA)のジュリアン・マイリック会長ら幹部と懇談し、その折、強くデ杯(デビスカップ)への日本の参加をすすめられました。USTAの関係者は、日本人選手の活躍を知っていて、朝吹に助言したのです。デ杯は国別対抗なので、国の窓口としての協会が必要です。日本には、まだ協会ができていませんでしたが、デ杯創始国でもある米国は、「書類上、役員組織さえ整えば、あとはなんとかするから」とまで、好意的に助言してくれました。そこで、帰国した朝吹は、学校やクラブの関係者と折衝を重ね、理事の頭数をそろえ、日本庭球協会を組織。推されて自らが会長となり、翌1921(大10)年2月、国際ローンテニス連盟(ILTF)に加盟を申請。米国の後押しで、その一員となることに成功しました(正式承認は1923年・大正12年3月)。

    にわかづくりの日本協会はこの年、熊谷、清水、柏尾(柏尾は実質的にはマネジャー)のチームをデ杯に送り、このチームがインド、オーストラリアを撃破。チャレンジラウンド(現在のワールドグループ決勝)に進んで米国の王座に挑戦しました。こうしたドラマチックな展開の後、朝吹ら関係者は、もう一度、協会組織を練り直し、翌1922(大11)年3月11日、東京・神田の基督教青年会館で発会式を行い、正式なスタートを切りました。米国からはデ杯戦の入場料配分金等として2万ドルが送金されてきて、これが協会運営の当座資金となりました。

    全日本選手権大会は、第1回大会は男子だけを対象に協会発足の年の9月、東京帝大(現東大)コートで行われました。男子シングルスチャンピオンには、チャレンジラウンド決勝を祝してニューヨ-クの日本クラブより寄贈されたニューヨ-クカップが授与されました。が女子種目は第3回から加えられました。翌1923(大12)年にはランキング制度の採用を決定して、1924(大13)年1月4日付で全日本ランキング(男子シングルス20位、ダブルス10位)を発表しました。1925(大14)年には初の競技規則を制定、1927(昭2)年にはボール公認のため、ボール・テストを初めて実施しました。

    昭和の年号が進むにつれて戦時色が濃くなり、1942(昭17)年には協会とその上部団体の大日本体育協会が解散を命じられ、国の統制団体である大日本体育会庭球部会に衣がえさせられました。そして、何の活動もできないまま敗戦を迎えました。

  3. 日本庭球協会の再発足
  4. 1945(昭20)年11月、再興総会を経て日本庭球協会が再発足しました。1968(昭43)年には世界のテニス界はオープン化され、プロ全盛時代が到来しました。しかし、日本協会は“アマチュアスポーツの総本山”である日本体育協会に加盟していたため、そのアマチュア規程が足かせとなって、プロ選手の登録を受け入れることができず、オープン・トーナメントを手がけたのは1972(昭47)年でした。こうして、国内開催の国際テニス大会としてのジャパンオープンが発足したのです。

    折から日本は高度成長期を迎え、一方では海外プロの来日もひんぱんになったこともあって、テニスブームが起こり、テニスクラブやコートが急速に増加しました。日本庭球協会の業務も、こうした内外の動きに対応して、幅広く進めていくことが求められようになりました。そのための対応のひとつが、協会を法的に認知してもらう法人化でした。

  5. 日本テニス協会として再出発
  6. こうして任意団体であった日本庭球協会は、1980(昭55)年に財団法人日本テニス協会に改組されました。1983(昭58)年には東京都の施設として有明テニスの森公園が完成し、主催大会会場として使用できるようになり、1991(平3)年には、東京・久我山の朝日生命スポーツセンターに協会用ナショナル・トレーニングセンター(NTC)を設置、普及と強化の両面で大きな足場を得ることになりました。しかし、日本のスポーツ界を取り巻く社会経済情勢は大きく変化し、10年後の2001(平13)年には、日本テニス協会の財源難のために、NTCのコートは朝日生命に返還しました。

    このように2001年は低迷した景気の影響を受けて日本テニス協会が財政難に陥った最中に、盛田正明氏が日本テニス協会会長に就任し、「新生日本テニス協会」、「日本サービス協会」をスローガンに、組織の改革、財源確保、国際対応に全力で取り組みを行いました。ジャパンオープンのアジアでの「テニスの祭典」としての再構築、とりわけ、選手と観客にも期待される大会とすることに努力を傾注し、1999(平11)年に25,706人だった観客動員数も2006(平18)年には72,386人に増加しました。テニス専用のナショナルトレーングセンター(NTC)も、文部科学省が2008(平20)年1月21日に正式オープンした味の素ナショナルトレーニングセンター内に、室内テニスコートを確保したことで復活しました。同年4月には、テニス競技会出場者の協力を得る形で、NTCや日本のテニス育成強化を目的とした「ワンコイン制度」もスタートしました。

  7. 新会長の就任と公益法人化
  8. 2011年6月、11年にわたり日本テニス協会を主導した盛田正明氏が会長職から勇退し、畔柳信雄が日本テニス協会新会長に就任しました。そして、翌年の2012年4月には日本テニス協会は公益財団法人に移行しました。

    テニスは生涯にわたり誰でも参加できるスポーツです。伝統的な大衆スポーツで、オリンピック・パラリンピック競技スポーツという国際性を持ち合わせることから、国民スポーツとしての役割は大きいといえます。そうしたことから、新法人への移行に伴い、日本テニス協会は生涯スポーツ、競技スポーツ、観るスポーツとしてのテニスの振興をその活動目的に据えたのです。更に、公益法人に認められていた優遇税制を念頭に、新会長は協会財政基盤の強化に向けた施策として寄附金制度の拡充を指導しました。

    着任した新会長の下での日本テニス協会は、協会運営の基本コンセプトとして「フェア、チームワーク、グローバル」を打ち出しました。さらに新会長は、テニス人口の減少、特に若年層のテニス離れに強い危機感を持ち、事業活動の検証のためのテニス人口調査を指示しました。また施策面では、何よりも先ずテニス普及活動のためにテニス導入ツールとしてグローバル・スタンダートともいえるTENNIS Play&Stayを全国で定着させる活動を優先的に取り組み、毎年全国9地域を訪問して、危機感の共有と普及活動の拡大を呼びかけました。2013年度には、9地域テニス協会に、2014年度からは47都道府県テニス協会に特別補助金を配賦して、TENNIS Play&Stayの市区町村への浸透を図りました。そして、2014年9月の錦織圭選手の全米オープ決勝への進出という快挙は、日本でのテニスへの社会的関心が飛躍的に高まり、テニスの普及にとって大きな追い風となりました。

    公益法人化をきっかけに、日本テニス協会は協会運営のガバナンス強化も取り組みました。特に、コンプラインス室を設置し、内部通報制度としての役割を果たす通報・相談窓口を設置し、日本テニス協会の管理運営を企業レベルでは通常化している状態への改善に努めました。

    2016年度は、本協会の3つの協会運営のキーワードの一つである「グローバル」においても新たな展開が見られました。2016年3月、これまでのオリンピックやデ杯、フェド杯に照準を当てたナショナルトレーニングセンターでの選手強化に加え、新たにジュニア選手の海外の競争環境下でのトレーニングを目指したJTA独自財源による特別ジュニア強化プログラムを開始しました。また同年9月には、日本テニス協会(JTA)とフランステニス連盟(FFT)が両国間のテニス分野での相互協力のための覚書を締結しました。覚書でJTAとFFTは、将来の協力分野として国際競技力向上、普及、競技会開催、指導者研鑽、調査・情報交換等を掲げています。JTAにとって、海外のテニス中央競技団体との協力に関する合意文書の締結はFFTとの覚書が初めてのものでした。

    2020オリンピック・パラリンピックの東京開催は、日本テニス協会活動に新たなチャンスを与えてくれています。それは、公式競技としてのテニスに公的資金が投入され、テニス選手の育成強化策が進展するからに外なりません。そして、テニス競技会場となる有明テニスの森公園の改修は、東京オリンピック・パラリンピックのレガシーとしてのテニス施設の拡充を意味し、観るテニスの発展に大きな意味を持つこととなります。

    他方、スポーツ選手や指導者による不祥事の社会問題化は、選手のジュニア期における教育啓発活動の重要性を再認識させました。2016年度からは日本テニス協会は、従来のガバナンス強化とコンプライアンス確保に加えて、試合におけるフェアプレイの推進運動を行っており、ルールを守る大切さを再確認にする意味でセルフジャッジ5原則の推進を開始しました。そして2017年度からは「あくしゅ、あいさつ、フェアプレイ」運動を開始し、試合開始前の挨拶と握手の呼びかけを行っています。これは、テニス振興の目的の一つに、少年少女の健全な育成、フェアな社会人、国際人としての人格形成があるからに他なりません。

    2017年度は、テニス普及と強化のための基盤と環境の整備という意味で重要な年となりました。地域・都道府県テニス協会の理解と協力によりジュニアJPINの制度構築が完了し、2018年4月から試験運用が開始され、ジュニアランキング制度が発足しました。

    普及活動の浸透に対応して、協会の事業活動面での目的も「普及と強化」から「普及・育成・強化」の三本柱へ転換させ、2018年3月には長年の課題であった「日本テニスの中長期戦略プラン」を取りまとめました。2017年度の日本テニス協会の総事業規模は22億6978万円でした。これは、公益法人への移行初年度である2012年度の総事業規模が13億6453万円であっことから、この6年間に66.3%拡大しこととなります。因みに、2017年3月発行のテニス環境等実態調査報告書によると、日本のテニス人口は、2012年の373万人、2014年の399万人から2016年には439万人に達したことが推計されました。


    (2018年6月12日更新)

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