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吉田 和子さん

[1975年 ウィンブルドン ダブルス優勝]

テニス史にさん然と輝く「沢松和子」の名前。数々の金字塔を打ち建てた吉田(旧姓沢松)和子さんは、国内では7年半の間に192連勝し、海外の大会でも上位に進出した。中でもアン清村選手と組んだ75年のウインブルドンのダブルス優勝は日本女子選手として初の快挙。先駆者である吉田さんに、夫が理事長で自身も常務理事を務める「吉田記念テニス研修センター」(千葉県柏市)で当時の思い出をうかがった。


日本が初めて参加したフェドカップの開会式

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「私はこの道はもう帰ってこない。絶対帰ってこない!」

1968年、ウインブルドン予選に出場した際、17歳の日本の女王は心に誓った。3回勝ち抜いて本戦出場を決めた帰り道。会場の塀に沿って歩きながら、頭の中で繰り返した。「こんなに苦しい予選にはもう出たくないと思いました。試合内容は覚えていないのですが、『絶対ここには帰ってこない』と思ったことはよく覚えています。それだけ予選3試合を勝ち抜くのはタフな戦いでした」と振り返る。

強い決意の通り、それきり予選に出場することはなかった。

75年のウインブルドンでは、アン清村選手と組んだダブルスで決勝に進出。だが、最初から優勝を意識していたわけではなかった。「ラッキーなことに、私たちに当たる前にシード選手が負けてくれたので勝ち進むうちにチャンスがあると思いました」

決勝は強豪のデュール(フランス)/ストーブ(オランダ)組と対戦したが、「シード選手でしたが、作戦がすべて当たってうまくいきました」と振り返る。

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「デュールは背が低く、ストーブは180センチを超える長身だったので、デュールの頭上に球を上げて崩そうと考えました。ストーブの方はびびるタイプで大事なところでぽかをやる。そういうことを考え、うまく揺さぶろうという作戦でした」

なぜこの作戦が当たったかというと、デュールはそれまで何度もウインブルドンのダブルスやミックスで決勝にいっていながら1回も優勝していなかったので、心理的なプレッシャーの影響が大きいと見抜いたからだ。

「勝負の世界ではそういうことって影響しますよね。マッチポイントはストーブがネットにかけたのですが、私は前にいて、この人はびびりやすいからレシーブミスするのではないか、ネット越えないでって思いました」

7-5、1-6、7-5で勝利。日本の女子テニス選手として初めて四大大会のタイトルを獲得した。

だが、当初はウインブルドンで使われる芝のコートは得意ではなかったという。芝のコートは低いバウンドで球足が速いうえ、イレギュラーも多い。粘り強いストロークが武器だったため、球足が遅いクレーコートの方が得意だったという。

「毎年芝の大会が終わってイギリスを出る時はうれしかったですよ。だんだん慣れましたが、初めて芝でプレーした68年は『これでどうやってテニスするの?』と思いました。もう全然ボールがはねてきませんから」

ウインブルドンの前に何大会か芝コートの大会に出場したが、まったく思う通りに打ち返せなかった。16歳で全日本選手権を制したが、日本の代表だからといってウインブルドンに出られるわけではなく、単複予選から出場した。

「わざわざ日本から来たということでトーナメント側のおばさんに親切にしてもらったのですが、ウインブルドンの予選に3回勝った時は本当に驚いた顔をしていました。彼女はその前の試合からずっと私のプレーを見ていましたが、とても勝てると思わなかったって。それだけ数週間で慣れたってことなのでしょうね」

予選を3回勝ち上がった時に思ったのが冒頭の「私はこの道はもう帰ってこない」という決意だった。初出場の本戦は単複初戦敗退したが、その道は6年後のタイトルにつながっていた。


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テニス人生で最も思い出に残る試合は当然ウインブルドンのダブルス優勝? そう問いかけると、「皆様にそう言われるのですが、いくつかある中の一つです。センターコートに入る際、お辞儀の方法を教えていただいたこととかすごい記憶に残っていますが、他にも印象的な試合はいくつかあります」と明かす。


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一つ目は初出場した関西ジュニアの1回戦。生まれて初めての大会で、夏の暑い中、接戦でシード選手を破った。決勝まで進み、姉の順子さんに負けたが準優勝を果たした。デビュー戦はまさにその後、テニスで成績を残していく始まりの大会となった。

二つ目は初めて海外に行ったジュニアのオレンジボウル。翌年の67年は16歳以下で優勝したが、最初の年は何回戦かで外国選手に敗退。「強い人がいっぱいいるということが印象的でした。だから頑張ろうとかダメだと思ったわけではなく、単純にすごいと思いました」

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三つ目は、67年の全日本室内の優勝。初めて全日本と名の付く大会で勝ち、次のステップになった。

四つ目は、69年のウインブルドンジュニア優勝。この年は一般のミックスダブルスでも渡辺康二さんと組んでベスト8に入った。

73年の全豪でトップ選手のウエードに勝ってベスト4に入った試合や、75年に全豪、全仏、全米でベスト8に入ったことも思い出深いという。

「75年は引退を決めていて、最後の年だということでかけていましたからね。最後のウインブルドンは3回戦で全仏に続きエバートに負けて。もっと上にいきたいのに、エバートと当たってがっくりきました。彼女は完璧で私のテニスでは崩せませんでした」

ウインブルドンのダブルスで優勝した75年に引退した。「はじめからこの年で引退することは決めていましたから」とあっさり選手から身を引いた。

自宅に隣接する「吉田記念テニス研修センター」からは、車いすテニスのグランドスラムを達成した国枝慎吾選手らが世界に羽ばたいている。


本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません

プロフィール

吉田 和子 (よしだ・かずこ)

  • 1951年1月、兵庫県西宮市生まれ。
  • 松蔭女子学院大卒。

主な戦績

  • 67~70、72年、全日本選手権単優勝。
  • 69年、 全仏とウインブルドンジュニア単優勝。
  • 73年全豪単ベスト4。
  • 75年全豪、全仏、全米単ベスト8、ウインブル ドン単3回戦、複優勝。

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