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柴田 善久さん

[1957 全日本テニス選手権]

柴田 善久さん

当時の日本テニス界のエース、宮城淳さんと加茂公成さんに近づきたい、という思いでテニスに打ち込んだ柴田善久さん。思い出の試合に挙げたのは三冠をかけて先輩の宮城さんに挑んだ全日本選手権シングルスの決勝だった。敗れはしたものの、翌年、初めてデ杯選手に選ばれ、日本を代表する選手として活躍した。

26歳で引退後は父親の建築材料メーカーを継ぐとともに、地元でテニスの普及に努めている。

柴田 善久さん

1957年(昭和32年)の全日本選手権最終日。柴田さんは当時皇居にあったパレスコートで三冠をかけ、宮城淳さんと顔を合わせた。既に男子ダブルスでは宮城さん、混合ダブルスでは多田敏子さんと組んで優勝を手にしており、残すはシングルスだけだった。

初めは三冠を意識していなかったが、混合ダブルス準決勝で優勝候補の宮城姉弟組が敗退し、「もしかしたらチャンスがあるかも」という気持ちが沸き起こった。順調に2冠を達成し、三冠の可能性があるのは柴田さんただ1人。宮城さんは勤務先のゼネラル物産の先輩で、練習試合を含めて1度も勝ったことがなかったが、三冠を意識せざるを得なかった。


宮城淳さんとのデビスカップ・ダブルス

宮城淳さんとのデビスカップ・ダブルス

柴田さんは当時22歳の伸び盛り。対する宮城さんは既に5年連続デ杯代表を務めた日本の第一人者。柴田さんは「上り調子の自分を相手にするのだから、いくら宮城さんでも硬くなるだろう」と期待を持った。だが、いくら攻め込んでもまったく動じない。ミスしても動揺することなく冷静にプレーを続ける。決勝だから1セットくらい取らないと格好がつかないと思ったが、3-6、1-6、3-6のストレート負け。「後輩の僕とやっても全然受け身になったり動じることがない。相手を乗せる前に、こちらに『もうあかん』と思わせる強さがあった」と振り返る。


横綱の吉葉山関と

横綱の吉葉山関と

宮城さんの強さは、当時角界で活躍していた横綱の吉葉山関の哲学を感じさせた。ゼネラル物産の練習コートには吉葉山関が足腰を鍛えるためトレーニングに来ることがあった。柴田さんは一緒にちゃんこ鍋を食べに行った際、横綱が口にした言葉が印象に残っているという。「自分の地位を脅かすような伸び盛りの選手には練習でも絶対に負けたらいけない。徹頭徹尾足で踏みつけるくらいやっつけないと。1度格上の人間を倒すと、恐れる物がなくなってどんどんパワーアップしてくるから」。

この言葉を宮城さんに重ね合わせた。同じ会社なので宮城さんと練習試合をすることも多かったが、宮城さんは柴田さんより格下の選手には練習試合でいろいろなパターンを試して負けることがあっても、柴田さんには絶対勝たせてくれなかった。「宮城さんは横綱の言った勝負の哲学を知っていたんだと思う。たとえ練習試合でも私とやる時は一切隙がなかった」。


横綱の吉葉山関とゼネラル石油のコートで

横綱の吉葉山関とゼネラル石油のコートで

柴田さんがテニスを始めたのは神戸高校に入ってから。高1の夏までは野球で甲子園を目指していたが、仲良しの幼なじみにテニス部に誘われ、テニスコートに足を運んだ。そこでダブルスをした相手は扇千景・元国土交通大臣。学校の先輩で軟式テニス部員だった。「たぶん勝たせてくれたんだと思うが、初めての試合で勝つことができてテニスって面白いなと思った」。


1958年デビスカップ抽選会で皇太子殿下(当時)隈丸監督とチームメンバー

1958年デビスカップ抽選会で皇太子殿下(当時)隈丸監督とチームメンバー

だが、皮肉なことに野球部を退部後、仲間が全国少年野球大会で優勝。神戸市大会、兵庫県大会、全国大会の前にそれぞれ「一緒に大会に出ないか」と誘われたが、テニス部に入ったため泣く泣く断っていた。「まだテニスは海のものとも山のものとも分からないのに、全国制覇した野球部の誘いを断って悔いが残った。この悔しさを取り除くには当時活躍していた『加茂・宮城』に近いところまでいくしかないと思った」。


1958年デビスカップ抽選会で皇太子殿下(当時)隈丸監督とチームメンバー

1958年デビスカップ抽選会で皇太子殿下(当時)隈丸監督とチームメンバー

野球をやっていたのでテニスに必要な力は既に培われていた。肩が強く、瞬発力もあった。テニス部の練習の他、祖父が自宅隣の空き地に作ってくれた板打ちで練習し、順調に成績を残していった。全日本ジュニアとインカレでともに準優勝。1957年の全日本では宮城さんに敗れ三冠を逃したものの二冠を獲得した。


1959年福田雅之助監督とデビスカップメンバー(インド戦)

その翌年、デ杯選手に選ばれ、「『加茂・宮城』に近いところまでいくしかない」という高校時代の目標を成し遂げた。「高校時代、野球部の誘いを受けて全国優勝していたら、きっとテニスの道を歩まなかったと思う。何が幸いするか分からない」という言葉に達成感が現れていた。


1959年福田雅之助監督とデビスカップメンバー(インド戦)

1959年福田雅之助監督とデビスカップメンバー(インド戦)


本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
柴田 善久さん

プロフィール

柴田 善久 (しばた・よしひさ)

  • 1935年3月生まれ
  • 神戸市出身
  • 関西学院大卒業

主な戦績

  • 1957年全日本選手権単準優勝、複、混合優勝。
  • 60年同複優勝。
  • 58、59、61デ杯代表。

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