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柳 恵誌郎さん

[1971 デ杯・オーストラリア戦]

柳 恵誌郎さん

WOWOWのテニス解説でお馴染みの柳さん。現役時代は身長165センチ、握力40そこそこと小柄で非力ながら、常に全力でぶつかる姿に「ガッツの柳」と呼ばれた。穏やかな笑みを絶やさない柳さんと話していると元デ杯選手だということを忘れそうになるが、「小柄な選手にしかできないテニスはある。相手の強さを封じるのが僕の哲学」だと力説する。そんな燃え上がる闘志でつかみ取ったのが、71年デ杯オーストラリア戦。柳さんはオープニングマッチで白星を挙げ、50年ぶり勝利への扉を開いた。

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1971年デ杯・オーストラリア戦開会式

「やった、やった」。マッチポイントでドロップボレーを決めると、柳さんはネット際で何度も飛び跳ねた。2時間50分の大接戦はフルセットにもつれこみ、ピンチもあった。だが、30歳の柳さんは20センチ以上も身長で上回る24歳のクーパーをにらみつけ、「こんな若造に負けてたまるか」と自分を奮い立たせた。


71年4月、日本はデ杯東洋ゾーンAセクション決勝で元ウインブルドン覇者のニール・フレーザー監督率いる強豪オーストラリアと顔を合わせた。それまでの対戦成績は1勝8敗。半世紀前に清水善造、熊谷一弥らのメンバーでたった1度勝っただけ。当時オーストラリアは宿敵フィリピン、インドと並ぶ大きな壁だった。前年は0-5で完敗。その後、オーストラリアでプロ転向者が相次いだため71年のメンバーは一新され、日本にもチャンスがあった。とはいえ、エースのクーパーはウインブルドン8強の実績を持ち、依然として層の厚さを誇っていた。


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首相官邸での抽選会

首相官邸で行われた抽選会。当時の佐藤栄作首相がネームカードを引いた結果、柳-クーパーのナンバーワン対決が第1試合に決まった。3週間前のデ杯フィリピン戦で2勝をあげた功労者の九鬼潤さんに代わっての出場。プレッシャーを感じても不思議ではないが、「抽選会の時から負ける気がしなくて、勝てるという自信しかなかった」と語る。


午前11時半、春の陽光が降り注ぐ田園コロシアムで第1試合が始まった。2年半前に初めてここでデ杯インド戦を戦った時は、薄暗いコロシアムの通路を抜け、まぶしい光を浴びただけで緊張のあまり頭がくらくらした。だが、オーストラリア戦では1万2000人の超満員にもかかわらず、どこに友人がいるのか見つけられるくらい冷静だった。


まずは2セットアップしたが、第3セット以降ネット進出を増やしたクーパーが6-2、6-1で楽に返してたちまちセットオール。渡辺康二監督から「これまでこんな試合運びではなかったでしょう」と檄が飛んだ。


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クーパー戦での柳さんのフォアハンド

ファイナルセットは柳さんのサーブで始まった。「作戦はなかった。とにかくストローク戦で食らいついていくしかない」。十分に球を引きつけて放つ得意のパッシングショットで何度もクーパーのネット進出を阻んだ。お互いのブレークで試合は進み5-3で王手をかけた。30-30で柳さんのバックパスが決まりマッチポイント。「最後はネットにつめなきゃダメだ」と思った。バック側に来た球をフォアで回り込んでアプローチショット。あえてハードヒットせず、ふわっと緩い球を送りネットへつめた。クーパーのスピードあるパスが襲いかかってきたが、ドロップボレーで熱戦を締めくくった。ボールがネットを越えた瞬間、喜びが爆発してジャンプしていた。


続く第2試合で若手の坂井利郎さんが3-1でディブリーに逆転勝ち。翌日のダブルスを落とし、「あと1勝」をかけて柳さんはディブリーと対戦した。ここでも4時間7分に及ぶ大熱戦を戦った。前日とうって変わって好調のディブリーに対し、柳さんは足が重く、得意のパスも精彩を欠いた。あっという間に3-6、4-6、0-4。「あの時だけは神にすがったね。もし神が存在するならどうかここで助けてくれ、と」。

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ディブリー戦で惜敗

柳さんは「15年のテニスをかけて」反撃した。2セットを奪い返し、ファイナルセット6-6。だが、4度目のマッチポイントでディブリーのフォアーボレーが無情にもコートに突き刺さった。握手の後、右手をネットにかけたままがっくりとひざをついた柳さんの写真からも無念さが伝わってくる。


勝負のかかった最後のシングルス。坂井さんがクーパーを圧倒、日没で中断した2日がかりの戦いに終止符を打った。更衣室に集まった日本チームはビールで乾杯。再びコートで渡辺監督を胴上げして「50年ぶりの快挙」を喜び合った。

立役者となった柳さんは「小柄で世界に対抗するにはどうしたらいいか」を体現していた。「意識的にスローペースで相手を乱した」とみられていたが、自然にそうなったという。「大学時代は『バカ打ちの柳』と言われたが、デ杯ではいくら打っても倍の力で返ってくる。緩い球で対抗せざるを得なかった」と語る。


ウインブルドン遠征の日本チーム

子供の頃は「歴史的快挙」の立役者になるとは想像もしていなかった。中学で軟式テニス部に入ったが「足遅い、バネない、肺活量ない、握力ない、力ない、女の子に勝てない」と散々ですぐにやめてしまった。福岡県立明善高校で硬式テニス部に入部。1度、卒業生の隈丸次郎さんの球出しを受け「君なかなかいいよ。一生懸命やるならテニス日記つけなさい」と声を掛けてもらったという。それでつけはじめた最初の文章が「俺は日本一になる」だった。法政大に進み、インカレ制覇。全日本は準優勝が最高だが、70年の日本ランクで1位をマークしている。


非力であることは変わらなかったが、力はなくてもいいプレーはできるという。「退職したり、運動しなくなると体は衰弱する。ただのジョギングじゃなく、テニスっていうのは面白さがある。体が動かなくても健康増進維持できる。それを伝えていきたい」と声を弾ませる。現役時代、小柄で奮闘する姿で人々を勇気づけた柳さんは、引退後も一般の愛好家にテニスの楽しさを伝え続けている。


本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
柳 恵誌郎さん

プロフィール

柳 恵誌郎 (やなぎ・けいしろう)

  • 1941年2月生まれ
  • 福岡県久留米市
  • 法政大卒業

主な戦績

  • 62年全日本学生単優勝
  • 65、67年全日本選手権単準優勝
  • 67~71年デ杯代表

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