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ミュージアム:日本テニス国際化の時代

日本テニス国際化の時代

5 1920(大正9)年、
国際舞台へ登場
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清水善造のグリップ。現在のイースタン・バックハンドに近いグリップで左右に打ち分けた
清水善造のグリップ。現在のイースタン・バックハンドに近いグリップで左右に打ち分けた
世界大戦中の1915年~18年、デ杯とウィンブルドン大会は休止していたが、1919年、再開されたウィンブルドンに新しいスターが生まれた。バレリーナのように軽やかなプレーで優勝したフランスのスザンヌ・ランラン(20才)である。テニス界には新風が吹き込み始めていた。
1920(大正9)年4月、三越(百貨店)常務の仕事などを一段落させた朝吹は、妻・磯子とともに欧米旅行に出かけた。ちょうど同じ頃、長期休暇を得た清水は、ウィンブルドンでの世界庭球選手権大会(ウィンブルドン大会)に出場するためヨーロッパに向かった。

ウィンブルドン前哨戦で調子を整えていた清水は、ケント大会でも決勝に進む。この時の相手は、インドで清水が初参加・初優勝したときに怪我で欠場していた優勝候補A.R.F.キングスコートだった。「あの時の優勝が弾みになって、今の自分がある」と恩義を感じていた清水は、第2セット、雨天中断になったとき、大会日程に配慮する形でリタイアを申し出た。ザ・タイムズ紙は、清水の態度を「in a very sporting way」と伝えている。

翌週から始まったウィンブルドン大会会場は、1920年当時、ウィンブルドン駅に近いワープル・ロードにあり、チャレンジ・ラウンド制が採られていた。優勝者への挑戦権を得るためにはオール・カマーズ・トーナメントを勝ち抜かなければならない。男子シングルスの場合、オール・カマーズ出場者128名の国別は81名の英国を筆頭に17ヶ国(不明3名)に渡っていて、清水は日本人初のエントリーだった。チャレンジ・ラウンド制は、1922(大正11)年、会場が現在のチャーチ・ロードに移転するとともに廃止された。
清水善造独特のフィニッシュ。素早いフットワークで壁のように打ち返すことができた
清水善造独特のフィニッシュ。素早いフットワークで壁のように打ち返すことができた
1921(大正10)年、得点しても失点しても、同じ笑顔の清水善造が描かれたイギリス漫画
1921(大正10)年、得点しても失点しても、同じ笑顔の清水善造が描かれたイギリス漫画
小柄な清水が小走りの素早いフットワークで壁のように返すスタイルは、ウィンブルドンでも変わらない。淡々とした表情で1、2、3、4、5回戦、準決勝と勝ち進む彼は、東洋の不思議な力を秘めているようにも見えた。一方、決勝で対戦することになった米国のビル・チルデン(William T.Tilden Ⅱ)は長身で、攻撃的サービスとオールラウンドなプレーで観客を魅了していた。
決勝戦は清水がリードし、チルデンが挽回する展開で、チルデンの6-4、6-4となる。第3セットでは接戦となり、チルデンが膝をひねって古傷を痛める場面もあったが、12-11からはチルデンの強烈なサーブで決着した。チルデンは前年優勝のG.L.パターソン(オーストラリア)を破って、アメリカ人初のウィンブルドン・チャンピオンになった。
1920(大正9)年、清水善造がウィンブルドン大会に初参加。オール・カマーズ決勝でチルデンに惜敗
1920(大正9)年、清水善造がウィンブルドン大会に初参加。オール・カマーズ決勝でチルデンに惜敗
清水の活躍は東京朝日新聞などの報道で日本にも伝わり、社会面の一隅に「国際庭球選手清水善造氏」の写真が掲載されたが、記事は小さく、「ウィンブルドン」の意味を知る人は少なかった。
8月になると、日本の新聞には「オリムピック競技」の記事が掲載されるようになる。柏尾とともにアントワープ大会に出場した熊谷は惜しくも優勝を逃したがシングルス、そして柏尾と組んだダブルスで日本初のメダル(銀)を獲得した。 9月には、早稲田、東京高商、東京高師など多くの大学庭球部が硬球を採用することとなる。

6 設立の発端とデ杯初参加
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1920年11月、米国庭球協会関係者とデ杯参加要件の打合せをする朝吹常吉
1920年11月、米国庭球協会関係者とデ杯参加要件の打合せをする朝吹常吉
ヨーロッパを旅行していた朝吹夫妻が日本への帰途、ニューヨークに戻ってきたのは10月になってからだった。ニューヨーク在住の熊谷は、これまでアメリカで世話になってきた米国庭球協会の主立った人々を招待し、謝意を表してほしいと思っていることを朝吹に相談したところ、快く引き受けてもらえることになった。熊谷は朝吹を自分のテニスの恩人であり、父とも思っている。

11月8日、ホテル・プラザでの晩餐会には、会長のJ.マイリックら米国庭球協会関係者約15名、アメリカン・ローンテニス誌編集長S.W.メリヒュー、そして日本側から熊谷の上司・長沼史郎、山崎健之丞、柏尾誠一郎が出席した。席上では、朝吹夫人の心のこもったもてなしが雰囲気を明るくしている。

やがて話題は日本のデ杯参加になる。朝吹が日本にもいずれ庭球協会を設立して参加できるよう準備したいと述べると、マイリック会長からは翌1921(大正10)年から参加できるよう急いで準備してほしいとの希望が述べられた。熊谷一彌、清水善造の活躍によって、今や協会の設立、デ杯参加が夢ではなくなっていた。

帰国した朝吹はすぐに関東、関西のテニス関係者に呼びかけ、日本庭球協会設立の準備を進めた。1921(大正)年2月には、オーストラレシア・チームからデ杯を奪還したばかりの米国デ杯チーム主将S.ハーディーやW.ウォッシュバーンがニュージーランドからの帰途に来日し、東京ローンテニス倶楽部関係者と会っている。米国チームの立役者チルデンとジョンストンは直接ルートで帰国していた。

朝吹らが、硬球採用したばかりの大学庭球部や倶楽部を会員とする日本庭球協会を仮発足させ、デ杯保持国(開催国)である米国庭球協会に参加申し込みをしたのは3月のことだった。

デ杯参加の要請を受けてインドから米国に向かう途中、再度ウィンブルドンに出場した清水は5回戦で地元のR.ライセットと対戦した。試合はもつれるが、当時の英国ルールでは第3セット後の10分間休憩は許されていない。疲労困憊したライセットに対して、終始淡々と進めた清水の態度は高く評価された。

スペインのM. アロンゾと対戦した準決勝では惜敗したが、この当時英国にいて、「SHIMIDZU」の文字が新聞紙上を賑わせ、現地の話題になるようすを見聞きした津島寿一ら日本人たちもテニスによる国際交流を実感する。

7月中旬、清水は、ウィンブルドンで優勝を守ったチルデンと同じ船でアメリカに向かった。

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