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ミュージアム:日本テニス国際化の時代

日本テニス国際化の時代

7 チャレンジ・ラウンドに
進出してアメリカに善戦
1.2.3.4.5.6.7.8.9

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1921(大正10)年、デ杯チャレンジ・ラウンドにのぞむ日本チーム。左から、清水善造、柏尾誠一郎、熊谷一彌
1921(大正10)年、デ杯チャレンジ・ラウンドにのぞむ日本チーム。左から、清水善造、柏尾誠一郎、熊谷一彌
1921(大正10)年デ杯には、新しく7ヶ国が加わり、フランス、インド、日本、フィリピン、チェコスロバキア、ベルギー、オーストラレシア、カナダ、英国、スペイン、アルゼンチン、デンマークの12ヶ国がオール・カマーズで対戦し、チャレンジ・ラウンドでカップ保持国米国に挑戦することになった。

ところがフィリピンとベルギーは棄権したので、日本は不戦勝で準決勝に進み、シカゴでインドと対戦することになる。試合前の予想は半々だったが、ダブルスで競り勝ち、決勝に進んだ。

8月下旬、ニューポートでのオール・カマーズ決勝戦では、新進気鋭の若手選手で構成されたオーストラレシアと対戦したが、第1試合の清水はJ.アンダーソンのミスに乗じてストレート勝ちした。第2試合では土壇場で真価を発揮した熊谷がJ.ホークスから第3セットをもぎ取った。休憩後の第4セット、第5セットは熊谷ペースになる。

第2日、ダブルスは壁のように立ちはだかるオーストラレシアが取った。

第3日第4試合、熊谷対アンダーソン戦も熊谷が追う形でフルセットになり、最後は6-1でチャンレンジ・ラウンド進出を決めた。
1921(大正10)年、デ杯カップ保持国の米国チーム。左から、チルデン、ウィリアムス、ウォッシュバーン、ジョンストン
1921(大正10)年、デ杯カップ保持国の米国チーム。左から、チルデン、ウィリアムス、ウォッシュバーン、ジョンストン
カップ保持国米国との対戦は、9月2日(金曜日)から、ニューヨークのフォレストヒルズにあるウエストサイド・テニスクラブで行われた。日本チームは柏尾がマネジャー役になっていたので、まもなく31才になる熊谷と30才の清水の連戦になる。それに対して挑戦を待ち受けていた米国チームのチルデンは28才、ジョンストンは27才だった。

米国にとっては6年ぶりの本国開催で、1月に奪回したばかりのデ杯を披露する機会でもある。特別列車が仕立てられ、スタジアムには12,000人以上の観客が集まった。満員の観客の中には、各国のデ杯チームや、米国訪問中のランランら著名人がいる。三井物産や三菱関係者など在留邦人も応援にかけつけていた。

第1試合、熊谷対ジョンストンの試合は午後2時過ぎに始まった。暑い中、シカゴ以来の枯草病(鼻炎の一種)に苦しむ熊谷は、本来の調子を出せないままストレート負けする。
1921(大正10)年、デ杯第1試合シングルス、試合前のジョンストンと熊谷
1921(大正10)年、デ杯第1試合シングルス、試合前のジョンストンと熊谷
第2試合、チルデンに対する清水には密かな勝算があった。6月にイギリスで練習試合をしたとき、彼はチルデンに3セット連取して勝っていたのだ。4時から始まった試合は、追いつ追われつの展開となり、接戦を7-5、6-4と連取した清水は、第3セットも5-4とリードしてサービス・ゲームを迎える。彼のサーブはよくコントロールされ、芝生の上で低く滑るから攻撃されにくかった。

清水が第10ゲームを30オールとしたとき、場内は異様な雰囲気に包まれた。清水が次の2ポイントを連取すれば試合は決まる。もし王者チルデンが倒れたらデ杯第1日のシングルスは1-1となり、チャレンジ・ラウンドの流れは変わるかもしれない。しかしチルデンはフォアのストローク・エースと、鋭いクロスコート・ボレーで窮地を脱した(注1)

5-5からの第11ゲームもジュースを2回繰り返したが、チルデンは土壇場で底力を発揮し、第3セットを7-5でもぎ取った。セットカウントは清水の2-1となる。
第3セット後、10分間の休憩に入った。この休憩が両者の明暗を分ける。

第4セットに入る頃は、日が陰り涼しくなってきた。元気回復したチルデンに対して、清水は足のけいれんに襲われる。第4セットが終わるとマネジャー役の柏尾が手当を試みたが、もはや走り回ることはできなくなった。しかし清水はプレーにもどり、手当の時間を認めて待っていたチルデンに感謝を示した。満員の観客は、痛みをこらえてプレーを続ける清水の勇気に大きな拍手を送った。

第5セットは6-1、最終ゲームはチルデン得意のキャノンボール・サービスで決まった。
1921(大正10)年、デ杯第2試合シングルス、試合前のチルデンと清水
1921(大正10)年、デ杯第2試合シングルス、試合前のチルデンと清水
目の前で繰り広げられた劇的な試合展開。主役のプレーヤーたちがコートを去るとき、観客は立ち上がって熱烈な拍手と歓声でふたりの健闘を讃えた。そして2時間を超える熱戦の緊張から解放されたかのように、数百枚のクッションがコートに投げ込まれた。

「TILDEN-SHIMIDZU DAVIS CUP MATCH」は、長く語り継がれることとなる。
1921(大正10)年、デ杯第3試合ダブルス、ウィリアムス/ウォッシュバーン組につめ寄る清水/熊谷組。米国チームが勝ち、カップを守った
1921(大正10)年、デ杯第3試合ダブルス、ウィリアムス/ウォッシュバーン組につめ寄る清水/熊谷組。米国チームが勝ち、カップを守った。
翌日の第3試合にも多くの観客が集まった。清水/熊谷組も健闘したが、ダブルス巧者のW.M.ウォッシュバーン/R.N.ウィリアムス組を破ることはできず、米国チームが5回目の優勝を決めた。5日月曜日、第4試合でジョンストンに対した清水も、第5試合でチルデンに対した熊谷も、ベストを尽くしたが一矢を報いることはできなかった。

野球のベーブ・ルース、ボクシングのW.H.デンプシー、ゴルフのボビー・ジョーンズ、そしてテニスのチルデンらが活躍する1920年代、アメリカ・スポーツ界は黄金期を迎える。
(注1)アメリカン・ローンテニス誌1921年9月1日号、353頁記載に拠る。清水自身は帰国後の講演で、「(あと2ポイントの場面で)何う云ふものか私は其の時突然腓返りがして足の自由を失ひ、第三セツトは七-五で敵に取られました」と話している。(『運動年鑑 7』朝日新聞社、大正11年刊)。

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