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2佐藤次郎アルバム 1933年~34年4月

佐藤次郎の歩んだ道

2 佐藤次郎アルバム
1933年~34年4月
1.2.

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昭和8年
(1933)
右端に、キャプテンの三木
1933年デ杯チーム。右端に、キャプテンの三木

【25歳】 2月下旬、デ杯出場のため布井、伊藤英吉と共に出発し、ヨーロッパ各地を転戦。

5月下旬、全仏選手権に出場。5回戦、フルセットの末ペリーを下したが、準決勝ではクロフォードにストレートで敗れた。ダブルスでも佐藤/布井の健闘めざましく準々決勝に進出したが、フランスの古豪ボロトラ/ブルニヨンの壁を崩すことはできなかった。


6月中旬、デ杯欧州ゾーンではハンガリー、アイルランド、そしてクラムを擁するドイツを破ったが、準決勝ではクロフォード、マックグラー擁するオーストラリアに敗れる。しかし第5試合では、フルセットの末クロフォードを下して意地を見せた。


6月下旬、全英選手権に出場。5回戦でフルセットの末、オースチンに雪辱を果たしたが、準決勝でクロフォードに敗れる。ダブルスでは布井選手と組んで 1、2、3回戦に快勝。4回戦では第3シードのペリー/ヒューズを2セットオールから撃破。準決勝ではドイツのクラム/ヌルネを2-1で下して決勝に進出したが、ダブルス巧者ボロトラ/ブルニヨンに再び敗れる。


8月中旬、布井、伊藤と共に渡米。9月初旬、全米ナショナル選手権大会に出場、4回戦に進出するもフルセットの末、マンヂン(米)に敗れた。

9月中旬、太平洋南西選手権大会では前年に続く決勝対決となったが、ペリーに敗れた。

10月中旬、布井、伊藤、両選手と共に帰国後は体調すぐれず、全日本選手権ではシングルス4回戦で藤倉二郎に敗れた。布井と組んだダブルスでは決勝で棄権。

1933年度のワーレス・マイヤー発表世界ランキングで第3位となる。
〈1933年ランキング No.1:J.クロフォード(豪)、No.2:F.ペリー(英)、No.3:佐藤次郎(日)、No.4:H.(バニー)オースチン(英)、No.5:E.バインズ(米)、No.6:H.コシェ(仏)、No.7:F.シールズ(米)、No.8:S.ウッド(米)、No.9:G.フォン・クラム(独)、No.10:L.ストーフェン(米)〉

1933年創刊第2号、《テニスファン》表紙のデ杯チーム。 左から、佐藤、伊藤英吉、布井1933年ウィンブルドン決勝に進んだ 佐藤/布井組
1933年創刊第2号、《テニスファン》表紙のデ杯チーム。 左から、佐藤、伊藤英吉、布井
1933年ウィンブルドン決勝に進んだ 佐藤/布井組
昭和9年
(1934)
【26歳】 2月9日、岡田早苗嬢との婚約が発表された。 2月19日、日本庭球協会は三木を主将に、佐藤、布井、西村秀雄、山岸二郎、藤倉二郎をデ杯選手に推薦したが、布井は一身上の都合で固辞した。4年連続の推薦を受けた佐藤も、健康上、学業上の理由で辞退を願い出たが、多くの期待に押されて出発することになった。
3月、早稲田大学政治経済学部二年修了、三年に進級。

3月23日、神戸より箱根丸で出発。途中、シンガポールで下船した折にも体調不良のため帰国を希望したが、説得されて再び乗船。

4月5日午後9時-11時、渡欧の途中、遺書を残してマラッカ海峡に身を投じた(享年26歳3ヵ月)。

5月6日、早稲田大学テニスコートに於て日本庭球協会主催慰霊祭。

5月10日、長尾村同家墓地にて式を挙げ、遺品を埋葬する。
戒名、早庭院神次獨郎居士。
郷里の人々と、笑顔の佐藤。 膝に抱いているのは甥・忍1934年、出発前の挨拶をする デ杯チーム。左から、山岸二郎、 藤倉二郎、佐藤西村秀雄
郷里の人々と、笑顔の佐藤。 膝に抱いているのは甥・忍
1934年、出発前の挨拶をする デ杯チーム。左から、山岸二郎、 藤倉二郎、佐藤、西村秀雄
4月、渡欧途中、 シンガポールに寄港
4月、渡欧途中、 シンガポールに寄港
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