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1Outdoor Gameから戸外遊戯へ

明治のテニス・ラケット物語

1 Outdoor Gameから
戸外遊戯へ
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横浜の外国人居留地で行われていたローンテニスは男女の社交の場でもあったらしい。レディーたちの前で、ジェントルマンたちはプレー中もネクタイを着用しなければならなかった。これらの制約を皮肉って、イギリス人在留画家にして風刺画の名手チャールズ・ワーグマンは自身が発行する《ジャパン・パンチ(Japan Punch)》誌(1876年6月号)に掲載した漫画【図1】の中で、ラケットを手に立てている人物に「何と高尚なことか!」と言わせている。
【図1:ワーグマンの風刺漫画。背景のネットは高く、支柱が多い。当時は、数種類のローンテニス・セットが販売されていて、コートやネットの形にも違いがあった】
【図1:ワーグマンの風刺漫画。背景のネットは高く、支柱が多い。当時は、数種類のローンテニス・セットが販売されていて、コートやネットの形にも違いがあった】
ここに描かれているラケットは細長く、ローンテニス以前よりプレーされていたラケッツ(壁に打ちつけるスカッシュに似たゲーム)で使われるラケットに似ている。
ウィンブルドンで第1回競技大会が開催された翌1878(明治11)年には、横浜の外国人居留地山側に開設された山手公園にLadies' Lawn Tennis and Croquet Club(現、横浜インターナショナル・テニス・コミュニティ)が発足した。また、東京の芝山内にあった海軍省宿舎や、本郷の東京大学内宿舎、虎ノ門の工学寮(のちの東京大学工学部)でも、外国人教師の家族がローンテニスを楽しんでいる。さらに神戸や長崎の外国人居留地でも、早くからプレーされていたという。簡易なローンテニス用具があって、それぞれの場所で使われていたようだ。
ちょうどその頃、諸学校での体操教科指導方法を教えるために、アメリカからG.A.リーランドが来日した。1879(明治12)年3月、神田区一橋通に竣工した体操伝習所では、おもに教員の坪井玄道が通訳しながら、各地から集まった伝習員に、体操を中心にした保健や体育の教科を教えている。時には、近隣の高等師範学校、東京大学予備門などに出かけて、指導することもあった。
東京大学予備門には、イギリス人英語教師F.W.ストレンジがいた。1875(明治8)年に来日したストレンジは、東京や横浜の外国人仲間が行うボート、クリケット、ベースボール、フットボール、陸上競技などに参加している。1883(明治16)年に東京大学・予備門で運動会(陸上競技会)が開催されたときには、日本初の近代スポーツ解説書『Outdoor Games』を著した。
英文で書かれた本文全55ページ中、LAWN-TENNISは25-29ページに解説されているが、ラケットについての説明はない。
その2年後に出版された『西洋戸外遊戯法』には、「器具」の説明がある【図2】。ラケットについては「その形団扇に似たる打球器」(旧字旧かなは現代表記とした。以下同じく)として図解してあり、ラケットのヘッド部分は籐で編まれていて、各自が保持することとしてあった。著者の下村泰大は埼玉県入間で機械製糸工場経営に携わった後、東京に出て出版業に転じたらしい。人物についてはよく知られていないが、社会の変化には敏感だったようだ。
【図2:『西洋戸外遊戯法』挿絵のラケット。籐で編まれていた。当時はラケットを「芋すくいざる」ということもあったという】
【図2:『西洋戸外遊戯法』挿絵のラケット。籐で編まれていた。当時はラケットを「芋すくいざる」ということもあったという】
一方、通訳しているうちに体操法を身につけた坪井は、任期満了してリーランドが離日したあとは中心になって体操教科の充実に尽くしている。やはり1885(明治18年)には、体操伝習所を卒業後に伝習所教師になった田中盛業との編著で『戸外遊戯法 一名戸外運動法』を出版した。
坪井・田中書の初版には西洋人少年たちのシングルスともダブルスとも判然としないプレー図が添えられていたが、3年後の改正版では日本人少年たちのダブルス・プレー図【図3】になり、コート図もダブルス専用になっている。
【図3:『改正 戸外遊戯法 一名戸外運動法』の挿絵。ダブルスのプレー図。ラケットのフレームは籐ではなく、木材に見える】
【図3:『改正 戸外遊戯法 一名戸外運動法』の挿絵。ダブルスのプレー図。ラケットのフレームは籐ではなく、木材に見える】
手にしているラケットのフレームは籐ではなく木材に見えるし、ゲームの解説も詳しくなっていて、この時期にローンテニスが普及し始めたことがうかがわれる。なお、初版後に体操伝習所は高等師範学校に吸収され、改正版当時、坪井は高等師範学校(高師。現、筑波大学)および第一高等中学校(のちに一高。現、東京大学)の教員になっている。高師庭球部も、この年に発足した。

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