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3軟球の庭球、硬球の庭球

明治のテニス・ラケット物語

3 軟球の庭球、
硬球の庭球
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【図5:《会津日報》1905(明治38)年5月24日発行に掲載された広告。鹿印ラケットは和製と伝えられているが、フィッシュテイル(魚尾形のグリップエンド)は珍しい。輸入品も取り扱っていたのだろうか】
【図5:《会津日報》1905(明治38)年5月24日発行に掲載された広告。鹿印ラケットは和製と伝えられているが、フィッシュテイル(魚尾形のグリップエンド)は珍しい。輸入品も取り扱っていたのだろうか】
 明治30年代に、日本のスポーツ界は活発になった。1900(明治33)年前後には、三田土護謨製造会社によって庭球用ゴム球が製造されるようになり、庭球は津々浦々に浸透していく。1905(明治38)年には、大阪の運動具店のラケット販売広告【図5】が、福島県の地方紙《会津日報》に掲載されるようにもなっていた。女学生たちも、積極的にテニスを楽しんでいる【図6】
【図6:三越PR誌《時好》1906(明治39)年1月号附録の双六に掲載された女学生のテニス。「ネットボール! 貴女のサーブより甘いでせう」の添え書きがある】
【図6:三越PR誌《時好》1906(明治39)年1月号附録の双六に掲載された女学生のテニス。「ネットボール! 貴女のサーブより甘いでせう」の添え書きがある】
明治30年代後半からは、慶應義塾、早稲田など私学系の大学がスポーツ界をリードするようになる。1908(明治41)年4月には、早稲田大学教授・野球部長の安部磯雄を主幹とするスポーツ誌《運動世界》が創刊された【図7】
【図7:《運動世界》1908(明治41)年4月創刊号の表紙。早稲田庭球部OBの水谷武が中心になって編集・発行していた。-国立国会図書館所蔵-】
同誌第2号(同年5月)には早稲田庭球部員選手たちが用具について語っている座談会記事が掲載されている。選手たちは米国製「スポルヂング」、「ライト、エンドヂツトソン」、英国製「サラゼンヂヤー」、「エーヤ」など輸入品を使っていたが、一般向けには各人の好みで選び、使いこんで手になじませることを奨めている。前衛には軽め、後衛には重めが適当とも添えてあった。日英商会(東京・新橋)や美満津商店の広告も掲載されている。

【図7:《運動世界》1908(明治41)年4月創刊号の表紙。早稲田庭球部OBの水谷武が中心になって編集・発行していた。-国立国会図書館所蔵-】

【図8:《運動世界》1908(明治41)年10月号に掲載された松下御影堂の広告。和製ラケットを製造していた】
和製ラケットでは松下御影堂(東京・牛込)【図8】、田中商店(東京・芝)の広告が目立つ。第13号(1909年4月発行)では、松下御影堂主人に取材して、ラケット枠の材料としてトネリコを探しあてるまでの苦心談を記事にしている。従来はクヌギ、樟子(松の種類か)、エノキ、サクラを使っていたため、どうしてもアッシュ(セイヨウトネリコ)を使った舶来品と競争できなかったそうだ。田中商店もバットと同じ材料(フジキ)で、和製ラケットの製造を始めたという。

【図8:《運動世界》1908(明治41)年10月号に掲載された松下御影堂の広告。和製ラケットを製造していた】

1902(明治35)年当時、米国スポルディング社でも練習用としてテニス専用ゴムボールを販売していたが、あくまでも主流は布でカバーされたテニスボール(硬球)だった。しかし、日本ではとくにゴム球(軟球)を使ったテニスが進化してゆく【図9-11】。試合方法もダブルスを主にした団体戦となり、そのための国内統一ルールが整備された結果、やがて日本の庭球は国際テニスルールから離れていくことになった。
【図9-11:早稲田大学庭球部編『最新庭球術』(1909年刊)に掲載されていたプレー写真。ゴム球を使った庭球の技術は、大正期に国際テニス界に参加するようになってからもじゅうぶんに通用した。しかし、グリップの違いなどによるプレー・スタイルの適応に苦労することもあった】 【図9-11:早稲田大学庭球部編『最新庭球術』(1909年刊)に掲載されていたプレー写真。ゴム球を使った庭球の技術は、大正期に国際テニス界に参加するようになってからもじゅうぶんに通用した。しかし、グリップの違いなどによるプレー・スタイルの適応に苦労することもあった】 【図9-11:早稲田大学庭球部編『最新庭球術』(1909年刊)に掲載されていたプレー写真。ゴム球を使った庭球の技術は、大正期に国際テニス界に参加するようになってからもじゅうぶんに通用した。しかし、グリップの違いなどによるプレー・スタイルの適応に苦労することもあった】
【図9-11:早稲田大学庭球部編『最新庭球術』(1909年刊)に掲載されていたプレー写真。ゴム球を使った庭球の技術は、大正期に国際テニス界に参加するようになってからもじゅうぶんに通用した。しかし、グリップの違いなどによるプレー・スタイルの適応に苦労することもあった】
軟球で鍛えた日本のテニスが硬球使用の国際テニス界に登場するのは、大正に入ってからになる。1920(大正9)年には清水善造がウィンブルドン大会オールカマーズで準優勝し、オリンピックでは熊谷一彌、柏尾誠一郎が銀メダルを獲得した。さらに翌年には初出場のデ杯でチャレンジラウンドに進出している。かくて1922(大正11)年には日本庭球協会(現、日本テニス協会)が正式発足して、国際ルールによる全日本庭球選手権大会が開催されるようになった。
レギュレーションと呼ばれた硬球のテニスに適合する国産ラケットや、国際的に通用する国産テニスボールの製造も、新たな開拓の道をたどることになる。(文責・岡田邦子)

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