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ジャパンオープン前史~デ杯が育てた日本テニスの結束力~

ジャパンオープン前史~デ杯が育てた日本テニスの結束力~

1 1951年7月、13年振りにデ杯へ復帰
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第二次大戦後に再開していたデ杯戦への復帰が認められるとすぐに、日本庭球協会(現、日本テニス協会)は参加準備を始めます。心配された派遣資金については、日本体育協会や日本軟式庭球連盟(現、日本ソフトテニス連盟)の支援募金や一般募金に加え、国庫補助も受けられることになりました。国際舞台への復帰は、日本スポーツ界一致の願いでもあったのです。

1938年以来13年振りとなる日本チーム(隈丸次郎、中野文照、藤倉五郎)を率いたのは、熊谷一彌監督です。熊谷監督は1921年デ杯初参加チームの雄でした。1951年7月、アメリカンゾーン1回戦で米国チームに完敗しましたが、北米を転戦した日本チームは久しぶりに最先端のテニスに触れることができました。

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1951年日本チーム。左から、隈丸次郎、藤倉五郎、熊谷一彌監督、中野文照
2 戦後世代、宮城淳と加茂公成の二枚看板
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1953年の日本チームは、1934-38年デ杯チームの柱・山岸二郎を監督とし、選手には代表2年目の宮城淳、そして初めての加茂公成、木村雅信が加わりました。

翌54年は、国際経験豊富な清水善造が監督となって、宮城、加茂兄弟(礼仁と公成)とともに、やはりアメリカンゾーンに参加しました。

アメリカンゾーンでの4年連続1回戦敗退は残念でしたが、新しい世代はアメリカ遠征でジャック・クレーマーらトップ選手のプレーに接して刺激を受けています。

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1954年日本チーム。左から、宮城淳、清水監督、加茂礼仁、J.クレーマー、加茂公成
3 1955年、東洋ゾーン開設で高まるテニス人気
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遠征の財政的な問題など抜本的な対策を迫られた日本庭球協会は、東洋ゾーン(イースタンゾーン)開設を計画しました。日本でデ杯を開催すれば入場料収入を得ることもできるし、インターゾーン決勝に進出する可能性も高くなります。

1955年、日本で初の開催となるデ杯東洋ゾーンは大きな国際イベントとして注目を集め、国別対抗戦としてのデ杯方式を一般に周知する機会にもなりました。

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国際親善を目的とするデ杯の慣例により、首相官邸で鳩山首相によって行われている組合せ抽籤の模様

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皇太子殿下(現、天皇陛下)を表敬訪問した両チーム。日本チームは、左から原田武一監督、吉村義郎、高山雄次、宮城淳、加茂公成。写真右端に、津島寿一日本庭球協会会長
4 米国でのインターゾーン準決勝へ
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田園コロシアムでの東洋ゾーン決勝では、デ杯経験豊富な原田武一監督(1924-27年デ杯チームの雄)が、田園コロシアムでの応援を力にし、宮城淳、加茂公成選手の実力を引き出して、試合巧者のフィリピンを破ります。しかし8月初旬、米国でのインターゾーン準決勝では、ホップマン監督率いるオーストラリア・チームに屈しました。

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1955年デ杯プログラム表紙。画はレッスン・プロの先駆者・渡辺政治氏による

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第2試合、宮城選手対アンポン選手

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第3試合、宮城/加茂組対デイロ/アンポン組

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第4試合でゾーン優勝を決め、アンポン選手と握手する加茂選手
5 宮城/加茂の全米ダブルス優勝とデ杯獲得オーストラリア・チームの来日
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1955年8月下旬、全米選手権ダブルスで宮城・加茂組が優勝しました。グランドスラム大会での日本男子ペア優勝は初の快挙です。

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全米ダブルス優勝杯を手にする宮城/加茂組の電送写真

10月には、アメリカからデ杯を奪還したオーストラリア・チームが来日し、輝くデ杯を日本のファンに披露しました。

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1955年デ杯覇者オーストラリア・チーム。デ杯の左側ががローズウォール、右側がハートウィッグ、後ろがホップマン監督夫妻とホードの各選手
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