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第1章 海外テニス交流のはじまり【1912(明治45)年~1928(昭和3)年】

第1章 海外テニス交流のはじまり【1912(明治45)年~1928(昭和3)年】

1 海を越えたテニス交流
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明治期後半の日本は、米国本土と米国統治下フィリピンを往復する航路の中継点となっていました。マニラで開催される東洋テニス選手権大会(the Championship of the Orient)に参加する米国の有力選手が日本に立ち寄るようになり、1912年には日本から朝吹常吉、山崎健之丞ら東京ローンテニス倶楽部会員3名が選手権に参加することとなります。日本初のテニス海外遠征でした。

1914年には、日本テニス国際化の口火を切った慶応義塾大学選手4名が参加します。この時に対戦したビル・ジョンストン(米国4位)と熊谷一彌はデ杯代表選手となり、1921年デ杯チャレンジラウンドでも対戦しています。

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1912年、マニラでの大会参加者たち。前列左から2人目が山崎健之丞、4人目が朝吹常吉

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1914年大会参加者たち。中列右から2人目が熊谷一彌、3人目がジョンストン
2 極東選手権競技大会、日本開催
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フィリピンYMCA体育主事のエルウッド・ブラウンの主唱により1913年に初開催された東洋オリンピック大会(隔年開催)は、第2回大会より極東選手権競技大会と改称され、1917年第3回大会を東京市芝浦で開催することとなりました。日本で行われる初の国際大会です。テニス種目にはフィリピン(ファルガス、ボロニアス、スアレス)、中国(潘文煥、何信道)、日本(熊谷、松原誠吾、三神八四郎、野村祐一)が参加しました。熊谷はシングルス、そして三神と組んだダブルスでも優勝しています。

1923年日本開催第6回大会には、フィリピン(アラゴン兄弟、マニュエル)、中国(呉仕光、刀慶観、葦栄駱)、日本(鳥羽貞三、原田武一、羽田武内)が参加し、大阪築港コートで行われました。女子の部もオープン種目として行われ、フィリピン(サントス、カリーガ)、中国(黄翠美、賀生翠)、日本(金田咲子、戸田定代、田村冨美子、梶川久子)が参加しました。シングルスでは金田、ダブルスでは田村/梶川が優勝します。田村/梶川は、自ら考案した斬新なウェアでも社会的な注目を浴びました。

1930年日本開催第9回大会は東京三年町特設コートで行われ、フィリピン(F.アラゴン、インガヨ)、中国(林宝華、邱飛海)を破って、日本(佐藤次郎、布井良助、山岸成一、志村彦七、川地実、鴨打秀勝)が団体優勝しました。オープン種目の女子の部でもフィリピン(インガヨ、カレアガ)、中国(李杏花、李牡丹)を破って、日本(小林知子、滝口澪子、朝吹磯子、飯村敏子)が優勝しています。

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1923年、第6回極東選手権大会テニス会場となった大阪の築港コート

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1923年大会、女子ダブルス対戦前の中国と日本選手。当時の女子選手は技術ばかりでなくテニスウェアも模索時期だった
3 はじめての学生テニス交流
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1922年6月、正式発足したばかりの日本庭球協会(現、日本テニス協会)が、カリフォルニア大学テニス部(べーツ、コンラッド、ウィルソン、ゼンソン)を招待しました。一行は、関東、関西、名古屋の大学チームと対戦しています。国際ルールによる硬球使用のテニスに切り替えたばかりの学生テニス界にとっては、とても貴重な経験でした。

1931年には、慶応義塾大学庭球部がカリフォルニア大学テニス部(ブレード、ラドロー、ギャラウェー、ネイデンら10名)を招いています。

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1922年に来日したカリフォルニア大学部員より贈られた記念盾

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1931年に来日したカリフォルニア大学部員と慶大部員
4 キンゼイ兄弟とスノッドグラスの妙技
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1923年以降は、デ杯代表選手の海外派遣が軌道に乗りました。一方、国内テニス啓発のため、大阪毎日新聞社が1925年に招待したのが米国の上位選手、キンゼイ兄弟、H.スノッドグラス夫妻です。

一行は大阪、名古屋の観衆の前、そして東京では新宿御苑コートにおける摂政宮殿下の台覧試合でプレーを披露します。観光の地でもあった鎌倉、宇都宮、奈良、広島、神戸ではエキシビションマッチが行われました。

日本側からは、熊谷、三木龍喜、安部民雄、請川卓、吉田嘉壽男、小林了二、太田芳郎、青木岩雄らが対戦相手になっています。

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左から、H.キンゼイ(兄、米国6位)、スノッドグラス夫人、R.キンゼイ(弟)、H.スノッドグラス

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右側はキンゼイ兄弟のダブルス。左上円内はスノッドグラスのサービス

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H.キンゼイ(兄)のボレー
5 リチャーズが魅せたモダンテニス
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米国デ杯選手として活躍後にプロ転向したV.リチャーズも、1927年10月、大阪毎日新聞社の招待で来日しています。リチャーズは、同じ船でデ杯遠征より帰国したばかりの原田武一、そして太田、福田、石井、安部、河尻、佐藤(次)、秋元、松浦、熊谷、羽田、坂本らと単複で対戦し、関東学生連盟の選手たちをコーチしました。東京、甲子園、宝塚、名古屋の会場では、多くの観衆がイースタングリップの軽快なプレーに魅了されています。

プロフェッショナル・プレーヤーの草分けであるリチャーズは、1926年以来、キンゼイ兄弟やスノッドグラス、そしてフランスのスザンヌ・ランランと同様に、契約プロとしてテニス興行ツアーに参加していました。

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当時の雑誌記事切り抜きとリチャーズのプレーの一瞬。旧知の原田武一、福田雅之助、そして石井小一郎らがエキシビションマッチの相手をした

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リチャーズのバック・ボレー
6 米国在住・森分德子の活躍
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1927年9月、ハワイ選手権保持者の森分德子(米国在住)が来日して関東、関西でプレーし、全日本選手権にも出場して優勝しています。

結婚して中野夫人となった1935年にも来日し、再び全日本で優勝しました。翌年、銀行マンであった夫の転勤に同伴してニューヨークに移り住んでからは、フォレストヒルズを会場とする米国選手権にも出場し、「日本婦人の世界的大会への初登場」として新聞等で話題になりました

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1936年、米国選手権での中野夫人
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