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ミュージアム:国際化への道、熊谷、清水が拓く

写真が語る日本テニス史 【大正2(1913)年】~

2 国際化への道、
熊谷、清水が拓く
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レギュレーション・ボール(硬球)採用
【大正2(1913)年】

東京ローンテニス倶楽部会員の朝吹常吉と山崎健之亟がマニラのカーニバル祭トーナメント(のちの東洋庭球選手権大会)に参加したのは、1912年2月のことでした。テニスでは初めての海外トーナメント参加です。国際ローンテニス連盟(現、国際テニス連盟)が発足した1913年には、慶応義塾大学庭球部が硬球採用を決断しています。翌年1月の東洋選手権大会には熊谷一彌ら慶応の4選手がマニラに遠征して大健闘し、軟球から硬球への先鞭をつけました。
さらに熊谷は渡米し、1919年には全米3位にランクされています。
マニラ遠征慶大チームと参加選手。中列左から4人目がW.ジョンストン(1913年全米4位)、5人目が熊谷一彌
マニラ遠征慶大チームと参加選手。中列左から4人目がW.ジョンストン(1913年全米4位)、5人目が熊谷一彌

熊谷、清水、デ杯初参加での大躍進
【大正10(1921)年】

1920年、アントワープ・オリンピックで日本初のメダリスト(銀)となった熊谷、柏尾誠一郎、そしてウィンブルドンでオール・カマーズ決勝に進出した清水善造らの活躍は世界の注目を浴びました。渡米中だった朝吹らはデ杯に日本代表チームが参加できるよう日本庭球協会の設立を決心し、帰国後に準備を始めます。この年9月には、主な大学庭球部なども硬球に移行していました。
1921年、デ杯初参加の日本チーム(熊谷、清水、柏尾)は連勝し、4回戦ではオーストラリア(ニュージーランドとの連合)を破りカップ保持国(前年優勝国)米国への挑戦権を得ます。チャレンジラウンドでは、W.T.チルデン、W.ジョンストンを擁する米国チームに敗れましたが、この時の入場料収入分与金は発足したばかりの日本庭球協会を支える基金になりました。
アントワープ大会で入場する日本選手団(後方の左から熊谷、柏尾)
アントワープ大会で入場する日本選手団(後方の左から熊谷、柏尾)
デ杯参加の打合せをする朝吹
デ杯参加の打合せをする朝吹
デ杯初参加日本チーム(左から清水、柏尾、熊谷)
デ杯初参加日本チーム(左から清水、柏尾、熊谷)
試合前にチルデンと談笑する清水
試合前にチルデンと談笑する清水

日本庭球協会が正式に発足
全日本庭球選手権大会始まる
【大正11(1922)年】

初代優勝者・福田雅之助と優勝杯(ニューヨーク杯)
初代優勝者・福田雅之助と優勝杯(ニューヨーク杯)
3月に正式発足した協会が主催する第1回全日本選手権大会(男子)は9月、本郷の東京帝大コートで行われ、福田雅之助が優勝杯を手にしました。 1924年3月には、国際庭球連盟に正式加盟。同年5月に東京ローンテニス倶楽部(三年町コート)で開催された第1回全日本女子選手権大会で優勝したのは黒井悌子です。

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