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ミュージアム:大戦の暗雲広がる中で

写真が語る日本テニス史 【昭和11(1936)年】~

5 大戦の暗雲
広がる中で
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チルデン、バインズ一行の来朝
日本初のテニスプロ選手誕生
【昭和11(1936)年】

シャープと握手する岡田(左側)
シャープと握手する岡田(左側)
テニス黄金時代のスターW.T.チルデン、1932年全英・全米の覇者E.バインズ、名花J.シャープらプロ選手一行が来日し、完成したばかりの田園読売スタンド(のちの田園コロシアム)や甲子園で試合を行いました。このときシャープの対戦相手を務めることになった岡田早苗はアマチュア資格を失い、日本のプロ選手第1号となりました。練習相手を務めた佐藤俵太郎もチルデンにスカウトされて男子プロ第1号になります。
左より、佐藤、チルデン、バインズ
左より、佐藤、チルデン、バインズ

ドイツのデ杯選手来日、日独対抗庭球戦
全日本選手権にも参加して全種目優勝
【昭和12(1937)年】

入場式。左より、柏尾、フォン・クラム、ヘンケル、ホルン、クラインシュロット、熊谷
入場式。左より、柏尾、フォン・クラム、ヘンケル、ホルン、クラインシュロット、熊谷
ドイツのデ杯選手G.E.フォン・クラム、H.ヘンケル、およびH.クラインシュロット、女子選手M. N.ホルンが来日して大阪、名古屋、東京で日独対抗試合を行いました。また、甲子園では全日本選手権に参加して単複混合の全種目で優勝しています。ホルンのパートナーは戸田定代でした。

山岸、強豪ブロミッチを破る
【昭和13(1938)年】

左より、中野、山岸、ブロミッチ、クイスト
左より、中野、山岸、ブロミッチ、クイスト
安部民雄(監督)、中野文照、倉光安峯は欧州でトーナメントに参加後、山岸二郎と合流して北米ゾーンに参加。2回戦でオーストラリアと対戦した日本チームは、山岸が第2試合で世界3位のブロミッチを下しましたが、2-3で惜敗しました。
翌1939年にはユーゴ選手が来日しましたが、国内外の状況悪化のため日本からのデ杯派遣は中止となります。

ボール配給制となり、日本庭球協会も解散へ
【昭和15(1940)年】

昭和19年度の『庭球規則』。「審判に関する用語」としてはサーバーが「発球者」、レシーバーが受球者、トスが「拳」など苦心の邦訳がみられる
昭和19年度の『庭球規則』。「審判に関する用語」としてはサーバーが「発球者」、レシーバーが受球者、トスが「拳」など苦心の邦訳がみられる
世界大戦のため、1940-45年にはデ杯も中断されました。日本では1940年に東亜競技大会や日独交歓試合が行われています。しかし、生ゴムの供給が軍需優先のため品薄になったボールは配給制になりました。1941年には全日本選手権が中止され、10月に田園コートで行われた明治神宮大会では審判用語も一部邦語化されました。太平洋戦争に突入後の1942年には日本庭球協会も大日本体育会に統合される形で解散することになります。第13回明治神宮大会が、全日本選手権(男子第20回、女子第18回、壮年第8回)を兼ねて行われたものの、もはや継続することはできませんでした。1943年には学徒出陣となり、多くの庭球選手たちが戦場に散ってゆきます。

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