いま甦るニューヨークカップの記憶3

いま甦るニューヨークカップの記憶3

7 消えた「ニューヨークカップ」
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1940(昭和15)年、欧州大戦のためデ杯が中止されます。アジアでの戦況も厳しくなり、翌年8月に予定されていた全日本選手権など各種大会も開くことができなくなりました。12月には太平洋にも戦線が拡大し、スポーツ団体は整理統合されます。このような情勢下にあった1942(昭和17)年10月、明治神宮国民錬成大会が通算第20回となる全日本選手権大会を兼ねる形で行われています。

当時、早稲田大学庭球部の主将だった鷲見保は、恵まれた体格と技術を生かし切れていないと評されてはいましたが、全日本では「一回戦の初球から身心こめた一球一打主義で押し通そう」と考えていました。かつて全日本大会ダブルスでベスト4(1922年)だった父親の豪雄も、毎日の手紙で「責任とか優勝などに絶対気を奪われるな、一ポイント一ポイントを心をこめて打て、身体を大事にしろ、油断するな、最後迄頑張れ、家族一同応援してるぞ……」と激励しています。

さらに「先輩、部員一致の伝統の力」に押され、鷲見は優勝しました。神戸の実家にニューヨークカップを持ち帰った鷲見は、やはりテニス大会でのカップを手に持つ弟の敏郎とともに記念写真を撮り、卒業後はすぐに陸軍に入隊しました。

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1942年全日本選手権大会シングルスに優勝してニューヨークカップを持ち帰った鷲見保と弟の敏郎。出征した二人が帰ることはなかった
フィリピンのルソン島で鷲見保が戦死したのは、1945(昭和20)年2月と伝えられています。この頃より神戸市域も空襲を受けるようになり、御影町(現在の東灘区)の実家も焼失、カップも失われました。