[1959 全日本大学対抗王座決定戦]
佐藤俵太郎、木村雅信、柴田善久、松浦督……。関西学院大からは多くのデ杯選手が生まれている。古田さんも大学を卒業した1960年(昭和35年)、初めてデ杯代表に選ばれた。同大出身者としては先の4氏に続いて5人目。デビュー戦の韓国戦でシングルス2勝を挙げた。日本生命時代は、全日本選手権のダブルスで優勝した。輝かしい戦歴の中で、最も思い出深いのは大学4年時の王座決定戦。「最大の目標にしていたし、自分にかかって負けたので1番印象に残っている」と振り返る。一流選手を多く輩出した伝統校の重圧と誇りを胸に、庭球部のモットー「Noble Stubbornness」(気品ある粘り)を言い聞かせながら厳しい練習に明け暮れたという。
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1960年、デ杯フィリピン戦のため遠征に向かう機上
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当時、東西の優勝校同士で争っていた全日本大学対抗王座決定戦に勝つことが、庭球部にとっても古田さんにとっても最大の目標だった。関西学生界ナンバーワンの関学は、古田さんが1年生の時から4年連続で慶応と対戦した。最初の年は関学が王座についたが、2年、3年と連続して慶応の前に屈していた。伝統校の重圧がかかる中、4年時には主将としてチームを引っ張った。
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1960年、デ杯韓国戦シングルス
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59年7月、最終学年で迎えた関学と慶応による王座決定戦。大阪市の中モズコートで大接戦が繰り広げられた。第1日はダブルス3試合。当初はナンバー1で出る予定だったが、パートナーが出場できなくなり、急きょ組み替えてナンバー3で出場し、ストレート勝ち。だが、残り2試合を落とし、慶応にリードを許した。
翌日はシングルス6試合が行われ、ナンバー6、5、4と下から順に争われた。関学は伊藤、芥川、河野の3人が白星を挙げ、4-2で王手をかけた。ナンバー3は敗れたが、ナンバー2の森良一と半那殻男戦は逆転に次ぐ逆転の大接戦になった。
「すでに私の試合も始まっていたんですが、『これは森で決まるかな』と期待しながらプレーしていた」と振り返る。
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1963年、森良一氏と全日本テニス選手権
ダブルスに優勝
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だが、森さんが敗れ、4-4のタイ。勝負はナンバー1シングルスにかかった。古田さんは慶応のエース、長崎正雄さんを相手に6-2、6-2で2セットアップ。第3セットも2-0とリードした。だが、長崎さんも意地を見せ、恵まれた体格から強烈なサーブを放ち、6-3で取り返した。第4セット。休憩を終えてコートに立つと、すぐに足に異変が現れた。ふくらはぎ、太もも、と全身にけいれんが起こったのだ。チェンジコートの際、仲間から一升瓶に入った焼酎をかけてもらったが、立っているのがやっとの状態。当時は水を飲むことは悪と信じられていたうえ、団体戦のプレッシャーが大きくのしかかっていた。
「首から足先までぴくぴくと筋肉が動き、寒気がした。痛いというより怖かったのを覚えています。勝負がかかっているのに何もできず無念でした」
残る2セットは1ゲームしか奪えず、王座奪還の夢は夏空の下で幻となった。
古田さんは男6人、女2人の8人兄弟の末っ子。中学1年の夏、関学の学生だった兄の勤さんが、早大の加茂礼仁さんに勝ってインカレを制した。古田さんは野球や陸上などをしていたが、「いつかテニスをして一流選手になりたいという大きな夢を持っていた」と話す。関学高等部2年でテニスを始めたが、頭角を現したのは大学に進学してから。
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1963年、森良一氏と全日本テニス選手権
ダブルスに優勝
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商学部4年の時、デ杯選手を選考する予選会で石黒修、市山哲の両氏とともに上位3人に入り、デ杯代表に決まった。
日本生命に入社したばかりの60年4月、田園コロシアムで行われたデ杯東洋ゾーン初戦の韓国戦に出場。シングルス2試合で初白星を挙げ、勝利に大きく貢献した。デ杯選手を紹介した当時の新聞を読むと、「しっかりしたストロークを基調に鋭角なパスを通して相手の守りを崩す」「地味だが堅実なプレーヤー」と紹介されている。166センチと小柄だが、粘り強さが身上で「拾いまくった」という。
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1960年、デ杯韓国戦シングルス
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古田さんは「真剣勝負することによって学ぶことは多い。小柄で体力に恵まれなかった僕でも何とかデ杯選手の一員になれた。誰もがチャレンジできる目標にして頑張ってほしい」と若手にエールを送る。
引退後は勤務地だった熊本県に在住。テニス指導に携わっている。
【取材日2004年2月12日】
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プロフィール
古田 壌 (ふるた・じょう)
主な戦績