[1966 デ杯・フィリピン戦]
渡辺康二さんが初めてグリップの持ち方を教わったのが石黒修さんだった。甲南中1年でテニス部に入った初日、甲南高のキャプテンだった石黒さんから新入部員全員が指導を受けた。熱心に説明を聴く同級生の中には後のデ杯選手、河盛純造さんと小林功さんもいた。「海外の大会の回り方から酒の飲み方まですべて石黒さんに教えていただいた。もちろんデ杯でも頼りにしていた」と話す。だが、1966年(昭和41年)のデ杯フィリピン戦は石黒さん敗退後、渡辺さんに勝負がかかった。重圧を乗り越えて日本に勝利をもたらした試合は、当時24歳だった渡辺さんに大きな自信を与えた。
満員の3000人の観客が見守る中、デイロのスマッシュがネットにかかると、渡辺さんはネットを飛び越えて相手に握手を求めた。最後のポイントがどうだったかは、当時の記事を読んでも思い出せない。だが、「あまりのうれしさに勢いあまって、ネットを飛び越えたことはよく覚えています」と苦笑する。
1966年5月、マニラで開催されたデ杯東洋ゾーンAセクション決勝。ナンバー2の渡辺さんは、勝負のかかった最終試合に登場した。それまで宿敵フィリピンとは何度も対戦していたが、日本が敵地で勝ったことは東洋ゾーンができた55年以来1度もなかった。40度近い暑さ、貝殻を砕いた独特のコート、騒がしい観客……。アウェーでは数々の過酷な条件下で戦わなければならなかった。そのうえ、主力のアンポンとデイロはドロップショットとロブの名手。猛暑の中、前後に緩い球で振り回されると、集中力と体力を維持するのが容易ではなかった。
「石黒さんが大黒柱でいましたから、私は気楽だったんです。でも、マニラに着くと、『今回は俺だめだ』って弱気な言葉をもらした。天下の石黒さんだから大丈夫だろうと思っていましたが……」。
第1試合は渡辺さんがアンポンと対戦した。エースが控えているという気楽さから、伸び伸びとプレーできた。7-5、6-4、6-3。出足が悪く第1セットは2ブレークを許したが、積極的にネットにつめてまずは1勝を挙げた。
第2試合の石黒さんとデイロの戦いはファイナルセット1-2で日没順延。翌日再開すると、前日のけいれんの影響もあって石黒さんは4ゲーム連取されて敗退した。2人で組んだダブルスはストレート勝ちし、2-1と王手をかけたものの、それまでと違うプレッシャーがのしかかってきた。
最終日。渡辺さんは第1試合の石黒さんとアンポンの試合を見ずに、控え室で待機していた。プレッシャーを感じて、スタンドにいることができなかった。室内には木のいすと、なぜか扉がなくむき出しのトイレがあった。「何だか牢屋にいるみたいだな」と思いながら1人で出番を待った。デ杯メンバーの小西一三さんと柳恵誌郎さんが交代で進行状況を伝えに来てくれたが、「お前にかかるぞ」と言われ、寒気がするような感じだった。
だが、音楽を聴きながら集中力を高め、「思い切ってやるしかない」と覚悟を決めた。午後3時、鶴田安雄監督から「倒れるまで頑張れ」と声を掛けられコートに入った。1ポイント目、デイロはリターンでいきなりドロップショットを放った。だが、ネットの白い部分にあたり、ボールはデイロのコートに落ちた。
「これが大きかった。もし入っていたら流れを奪われて攪乱戦法にやられたかもしれない」と振り返る。その後は一方的だった。立ち上がりから強烈なフォアで相手をベースラインに釘付けにした。サーブも好調で常に主導権を握った。6-2、6-4、6-2。若さと力で1時間20分の戦いを制した。
「デ杯で2-2の重圧を味わったのは最初で最後。特別なプレッシャーのかかった試合に勝てたことで大きな自信になった。『俺は2-2を勝ったんだ』というのが、いつも心の中にありました」と語る。
63~70年までデ杯代表に選ばれ、単複40試合に出場し、25勝を挙げた。引退後はすぐにデ杯監督に就任。71年5月に50年ぶりにオーストラリアを破った時の指揮官を務めた。この時は1カ月前に敵地マニラで行われたデ杯フィリピン戦で2勝を挙げた九鬼潤さんや伸び盛りの神和住純さんではなく、30歳のベテラン柳さんを出場させた。29歳の若い渡辺監督の戦略が当たり歴史的勝利を収めた。「監督として最高の思い出はこの選手起用にある。意外な選手起用がまんまと当たった心地よさは忘れられない」と語る。
同年から全日本のシングルスで三連覇した神和住さんは選手発表を聞いて激怒し、後々まで「あの時は本当に頭にきた」と言ったそうだが、当時は「柳さんでいくしかいない」という信念があったという。「オーストラリアの速いサーブとネットプレーに対抗するには、正反対の緩い球を打つ柳さんで相手のリズムを崩すのが最良だと思った」と振り返る。
74年まで4年間デ杯監督を務め、現在は日本テニス協会専務理事。穏やかな笑みを浮かべて話す渡辺さんだが、選手として、そして監督として重圧を乗り越えてきた経験が熱い思いとなって、テニス界を支えている。
【取材日2003年1月10日】
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
プロフィール
渡辺 康二 (わたなべ こうじ)
- 1942年1月生まれ
- 兵庫県芦屋市出身
- 甲南大卒
- 日本テニス協会専務理事
主な戦績
- 60年全日本ジュニア単優勝
- 63年インカレ単優勝
- 64、67、68年全日本選手権単優勝
- 65~68年同複優勝
- 63~70年デ杯代表
- 71~74年同監督