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ミュージアム:日本テニス国際化の時代

日本テニス国際化の時代

9 テニスを生涯の友として
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1951(昭和26)年、戦後のデ杯復帰が認められ、北米ゾーンに参加することになった日本チームの監督に熊谷一彌が就任した。左から、隈丸次郎、藤倉五郎、熊谷監督、中野文照
1951(昭和26)年、戦後のデ杯復帰が認められ、北米ゾーンに参加することになった日本チームの監督に熊谷一彌が就任した。左から、隈丸次郎、藤倉五郎、熊谷監督、中野文照
帰国後の熊谷、清水はテニス国際化のパイオニアとして貢献するが、日本は次第に軍国化の方向へ傾斜してゆき、太平洋戦争中にはテニスも敵性競技として排斥されるようになった。日本庭球協会も1942(昭和17)年9月に解散せざるをえなくなる。清水は数々の優勝杯を金属供出し、熊谷の優勝杯や思い出の品々は空襲で焼失した。1945(昭和20)年8月15日、終戦。

戦後まもない11月10日、日本庭球協会再興総会で清水は議長を務めている。ウィンブルドン・オールカマーズ準優勝杯などは供出を免れ、清水の手元に残されていた。

1951(昭和26)年5月、再び参加が認められたデ杯監督として、熊谷は羽田空港から米国に向かった。ロサンゼルスで書かれた熊谷の手紙には「ハワイと当地に参りましてからお目にかかった米国人から私共が受けた印象は全部が全部よろしく、昔あった差別の待遇等がないのみならず、却って特に好遇を受けているような気持が致します。これに対して私共もひとしお自重して行動するよう一同申し合せております」とある(注4)
1954(昭和29)年、北米ゾーンでメキシコと対戦することになった日本チームの監督に清水善造が就任した。左から、宮城淳、清水監督、加茂礼仁、J. クレーマー、加茂公成
1954(昭和29)年、北米ゾーンでメキシコと対戦することになった日本チームの監督に清水善造が就任した。左から、宮城淳、清水監督、加茂礼仁、J. クレーマー、加茂公成
清水も1954(昭和29)年に監督となり、日航機で渡米後、メキシコシティーに回っている。清水は、遠征の収穫として第一に技術上や精神的な面を挙げ、第二に「選手達がどんな試合にも常に真剣にスポーツマンシップを発揮したことによって非常に良い印象をメキシコ、カナダ、米国各地の識者、一般フアンに残してきた」こと、「いわゆるスポーツ使節として立派にその責任を果してきてくれた」ことを報告している(注5)。清水は途中フィラデルフィアに回って、前年に亡くなったチルデンの墓参りをした。

1955(昭和30)年には、日本庭球協会津島寿一会長らの尽力でデ杯東洋ゾーンが日本で開催される運びとなった。

デ杯初参加から数えて45年間、一貫してテニスの普及と国際化に貢献してきた熊谷と清水は、紫綬褒章など数々の表彰を受けている。

1966(昭和41)年4月には、日本庭球協会より熊谷一彌、清水善造両氏へ庭球功労最高栄誉賞が贈られた。
(注4)と(注5)『日本テニス協会六十年史』(1983年刊、日本テニス協会)に拠る。

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