【24歳】 1月-2月、原田武一、布井良助と合流して、オーストラリア各地で活躍する。豪州選手権(現、オーストラリアンオープン)では単、複、混合に出場し、シングルス準決勝でホップマン(豪)に惜敗。
左:1932年1-2月、オーストラリアテニス協会からの招待を受け、原田武一、布井良助とともに豪州各地で親善試合。全豪選手権ではベスト4
上:オーストラリアの新聞記事と 掲載された佐藤次郎のイラスト
左から、佐藤、ブルックス、原田、布井
左から、クロフォード、ホップマン、原田、佐藤
約1ヵ月の豪州遠征後、リビエラに直行して、三木、桑原孝夫、両デ杯選手と落ち合い、各地を転戦した。
5月下旬、全仏選手権で4回戦に進出するも、好調のベルナール(仏)に敗れる。
左:1932年3月、渡欧途中に 記された自筆の歌
上:1932年デ杯チーム、ギリシャにて 左から桑原孝夫、三木龍喜、佐藤
6月下旬、全英選手権に出場し、シングルス5回戦で前年の覇者ウッド(米)を破りセンターコートの観衆を熱狂させた。オースチン(英)との準決勝では小雨に泣く。三木と組んだダブルスでは3回戦でクロフォード/ホップマン(豪)に競り勝ったが、4回戦でブッシュー/メルラン(仏)に敗れた。トーマス嬢との混合でも3回戦に進んだ。
1932年ウィンブルドン 5回戦で前年の覇者 ウッドを破る
準決勝の対戦。 オースチンvs.佐藤、クロフォードvs.バインズ
7月、デ杯戦欧州ゾーンでは、ギリシャ、デンマークを破ったが、準決勝のイタリア戦シングルスで佐藤は思わぬ2敗を喫し敗れた。
8月、桑原と共に渡米。全米ナショナル選手権(現、USオープン)ではシングルス、ダブルス共に2回戦、混合でも3回戦で敗退した。
9月下旬、太平洋南西選手権では4回戦でバインズ(米)、準決勝でオースチン(英)を下して決勝に進出したが、ペリーに敗れた。
1932年、ロサンゼルスにて。世界の強豪と共に。 左から、クロフォード、ペリー、佐藤、バインズ
10月中旬、2年振りで帰国。
10-11月、全日本選手権大会に出場して、単複(w/川地)で決勝に進むも、シングルスでは布井に敗れて準優勝、ダブルスでは優勝。