【25歳】 2月下旬、デ杯出場のため布井、伊藤英吉と共に出発し、ヨーロッパ各地を転戦。
5月下旬、全仏選手権に出場。5回戦、フルセットの末ペリーを下したが、準決勝ではクロフォードにストレートで敗れた。ダブルスでも佐藤/布井の健闘めざましく準々決勝に進出したが、フランスの古豪ボロトラ/ブルニヨンの壁を崩すことはできなかった。
6月中旬、デ杯欧州ゾーンではハンガリー、アイルランド、そしてクラムを擁するドイツを破ったが、準決勝ではクロフォード、マックグラー擁するオーストラリアに敗れる。しかし第5試合では、フルセットの末クロフォードを下して意地を見せた。
6月下旬、全英選手権に出場。5回戦でフルセットの末、オースチンに雪辱を果たしたが、準決勝でクロフォードに敗れる。ダブルスでは布井選手と組んで 1、2、3回戦に快勝。4回戦では第3シードのペリー/ヒューズを2セットオールから撃破。準決勝ではドイツのクラム/ヌルネを2-1で下して決勝に進出したが、ダブルス巧者ボロトラ/ブルニヨンに再び敗れる。
8月中旬、布井、伊藤と共に渡米。9月初旬、全米ナショナル選手権大会に出場、4回戦に進出するもフルセットの末、マンヂン(米)に敗れた。
9月中旬、太平洋南西選手権大会では前年に続く決勝対決となったが、ペリーに敗れた。
10月中旬、布井、伊藤、両選手と共に帰国後は体調すぐれず、全日本選手権ではシングルス4回戦で藤倉二郎に敗れた。布井と組んだダブルスでは決勝で棄権。
1933年度のワーレス・マイヤー発表世界ランキングで第3位となる。
〈1933年ランキング No.1:J.クロフォード(豪)、No.2:F.ペリー(英)、No.3:佐藤次郎(日)、No.4:H.(バニー)オースチン(英)、No.5:E.バインズ(米)、No.6:H.コシェ(仏)、No.7:F.シールズ(米)、No.8:S.ウッド(米)、No.9:G.フォン・クラム(独)、No.10:L.ストーフェン(米)〉
1933年創刊第2号、《テニスファン》表紙のデ杯チーム。 左から、佐藤、伊藤英吉、布井
1933年ウィンブルドン決勝に進んだ 佐藤/布井組