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ミュージアム:日本のテニスはじめて物語

物語、その後

11 布井良助のエピローグ
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1934年もまたデ杯代表候補になったが、佐藤次郎も布井良助も強く辞退した。しかし周囲の事情で出発せざるを得なくなった佐藤は、遠征途次、マラッカ海峡に身を投げてしまう。「一緒に行っていれば…」と自分を責めた布井も、太平洋戦争中の1942年に召集され、南方戦域に派遣された。そして1945年7月21日、マラリアを患っていた陸軍主計大尉布井良助は、インパールから撤退する途次、このままでは自分の世話をする部下たちに犠牲が出ると判断。部下たちに用事をいいつけて遠ざけたうえでピストル自殺を遂げた。やがて8月15日、終戦となる。その時生き延びた部下が、43年後に布井の遺族を尋ね当て、遺品の腕時計を届けた。

はじめてのウィンブルドンミックス優勝

12 三木龍喜
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1934年のウィンブルドンでの快挙。パートナーは英国人のドロシー・ラウンドだった。1921年、大阪市立高等商業学校(現・大阪市立大学)で硬式を始めた三木龍喜は、卒業後、安宅産業に就職、英国勤務となる。取締役の安宅英一と一緒の渡英だった。デ杯選手となった友人の三木に、思う存分テニスに打ち込める環境を提供したいという安宅の熱い思いがそこにはあった。優勝はその滞在中の成果だ。また、三木は自分のコーチとしての才能に気づき、指導者としても名を馳せた。ミックス優勝のパートナー、ドロシー・ラウンドは、愛弟子のひとりだった。

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