[1955 デビスカップ・フィリピン戦]
昭和13年、第15回全日本で念願のタイトルを獲得。
インタビューのため、東京・世田谷の自宅から、渋谷にある日本テニス協会までわざわざ出向いてくださった。ひざを痛めたため、今はテニスをほとんどやっていないという。
加茂さんといえば、姉の故中牟田純子さん、故徳島幸子さん、兄の礼仁さんとともに活躍されたテニス一家の末っ子。父国夫さんに手ほどきを受け、4人全員が全日本のタイトルを獲得した。ラケットを握ったのは5、6歳の時。2人の姉が自宅コートで練習しており、球拾いの合間に兄と球をぽんぽん打ち合って遊んだという。そんな加茂さんが「思い出に残る試合」に挙げたのは、日本初開催のデ杯だった。
東急線の田園調布駅を降りると、田園コロシアム、通称「田コロ」まで続く道を人々が列をなした。約1万人収容のスタンドは超満員。通路には人が埋まり、隣の田園調布小学校の教室や線路を挟んだ向こう側の桜並木から、人々は田コロを見下ろした。1955年(昭和30年)5月、日本で初めてデ杯が開催された。それまでは、はるばる渡米して戦っていたが、同年に東洋ゾーンが新設され、決勝で日本はフィリピンと顔を合わせた。監督は1926年のデ杯フランス戦で、当時世界ランク1位のラコステを破った原田武一氏。試合には加茂さんと宮城淳さんが出場した。今でも「加茂・宮城」と形容される、一時代を築いた日本のエースである。当時、国内で外国の試合を見る機会はほとんどない。日本初開催のデ杯は、「けいれんからの逆転」というドラマチックな展開で幕を開けた。
加茂さんは第一試合でデイロと対戦。ドロップショットとロブの得意な選手だった。セットカウント2-1と王手をかけたが、第4セットで両足のふくらはぎがけいれんした。緊張して体に余計な力が入っているところを、前後に振り回されたためだ。「四方八方から見られるのは緊張するもんです。しかもデ杯は当時、世界で1番の大舞台。緊張の度が過ぎた。前日の夜もプレッシャーが大きくてよく眠れなかった」。足を引きずりながら戦ったが、完全に相手ペースで試合が進んだ。満足に走れない加茂さんを見て、デイロは勝ちを確信したのか、にやにやと余裕の笑みを浮かべた。ファイナルセットも1-4にされ、絶体絶命のピンチを迎えた。「棄権? そんなことは頭の片隅にもなかった。デビスカップ、しかも日本初開催の決勝を途中で投げ出すなんて」。
1万人を超える観客はシンと静まり返り、勝負の行方を見守った。そんな静けさの中、「加茂頑張れ!」と男性の声援が飛んだ。当時の応援は拍手のみ。その声を聞いたすべての人の記憶に残るほど、強烈な出来事だった。声援に後押しされたかのように、加茂さんは挽回していった。実は1-4になったところで、作戦を変えていた。動きをカバーするため、ポジションを前に取った。サービスライン付近に詰め、相手の得意なドロップショットを封じた。2-4、3-4と1ゲームずつ取り返し、ついに4-4の振り出しに戻した。追い上げたことで自然に気持ちがリラックスしたためか、いつの間にかけいれんも治まった。
どんどんネットに出て、相手にプレッシャーをかけ続けた。デイロの顔から、笑みはすっかり消え去った。セットカウント3-2。「ウィニングポイントは覚えていない。とにかく最後まで続けようと必死だった」と振り返る。ゲームセットの声を聞いた時は、「うれしいというより、日本が勝てたことにホッとした」というのが正直な気持ちだ。
加茂さんの劇的な勝利に続き、宮城さんも逆転勝ち。翌日のダブルスは敗退したが、最終日に加茂さんがアンポンを敗り、日本初開催のデ杯を白星で飾った。
同年8月、アメリカで行なわれたデ杯インターゾーン準決勝は強豪オーストラリアに0-4で敗れたが、1週間後の全米選手権(現USオープン)の男子ダブルスに出場した加茂・宮城組は6試合を勝ち抜いて優勝した。2人の他に日本男子で四大大会のタイトルを獲得したのは、1934年にウィンブルドン混合ダブルスで優勝した三木龍喜氏だけである。
「デ杯は国旗を背負っているから緊張する。全米は個人の試合だから肩の荷は軽い。でも、どちらもうれしかった。特に全米で優勝できるなんて思ってみなかったですから。まあ無心の境地ですよ」。当時、全米はボストンのロングウッド・クリケットクラブという伝統あるクラブの芝生コートで行われていた。フォアの強打とサーブアンドボレーが得意だった加茂さんは、球足の速い芝生コートと相性が良かった。USオープンは現在、ニューヨークのナショナルテニスセンターに会場が移され、ハードコートで行われているが、もちろん2人の日本人ペアは優勝者として名前が刻まれている。
【取材日2003年3月17日】日本テニス協会にて
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プロフィール
加茂 公成(かも・こうせい)
- 1932年5月10日生まれ
- 東京都目黒区出身。
- 早稲田大学卒
主な戦績
- 1953年~56年 全日本選手権単優勝
- 1953年~59年 デ杯代表(単12勝8敗、複3勝6敗)
- 1955年 全米選手権(現USオープン)複で宮城淳さん組んで優勝
- 1964年 デ杯監督