[1936 日米国際庭球戦]
03年1月、インタビューのため東京・市谷の自宅を訪ねた。週3日はテニスコートに出向き、50~60代の“若手”を相手にダブルスを2セットこなしているという。「以前に比べ、進歩しているのよ」と心底楽しそうだった。岡田さんはかつて、「佐藤次郎氏(元世界3位)の婚約者」と言われていた。だが、「彼が一方的に発表しただけ」と否定した。真相も含めて、当時の思い出をうかがった。
岡田さんは、日本初の女子プロテニスプレーヤーだが、プロになるのは気が進まなかったという。全日本選手権に出られなくなると思ったからだ。全日本のダブルスでは山岸久子さんと組み、2回優勝していたが、シングルスでは1933年(昭和8年)から3年連続して決勝で涙をのんでいる。初めの2回は同級生の林(現姓神谷)美喜子さんに敗れた。3回目は林さんが引退して「今度こそ」と思って臨んだものの、ハワイから参加した中野徳子さんに優勝をさらわれた。6-3、3-6、6-8の接戦だった。タイトル獲得に意欲を燃やしていたが、事実上これが「最後の全日本挑戦」となった。
二・二六事件のあった1936年、読売新聞社がアメリカから元世界王者のチルデンと若手のヴァインズ、それに女子プロのシャープの3人を招待して「日米国際庭球戦」を開催した。岡田さんは同年10月、同社社員となって出場することになった。「初めは男子選手2人が試合をすると聞いていたのですが、『シャープさんも来るから相手をしてほしい』と来日の1週間前に言われたのです」。
当時、全日本はプロに門戸を開いていなかった。何としても全日本のシングルスタイトルがほしいと思っていたが、プロと対戦したら必然的にプロとみなされてしまった。
とはいえ、全日本と引き換えに行なった試合は「忘れられない思い出」となった。1989年に取り壊されるまで「田コロ」として親しまれた田園コロシアムは、チルデンらを迎えるために突貫工事で作られた。会場周辺には観客の長蛇の列ができた。だが、8,000人の観客を前にしても、ボールしか目に入らなかったという。東京、大阪、名古屋を巡り、4勝5敗。当時の新聞には「シャープと互角」という見出しが躍り、大きく取り上げられた。「シャープさんはアメリカの3番か4番の選手で、足が速かったのですが、対等に戦えました」。
その後、東京ローンテニスクラブ会長でベルギー大使のバッソンピエール氏から「現地の知人を紹介するから、ヨーロッパの試合に出たらどうか」と勧められた。男子選手は海外でも活躍していたが、四大大会に挑戦した日本の女子選手はいなかった。「『知人に連絡しておくから心配ない』と言われましたが、一人で海外に行くなんてとてもできないと思いました。悩むこともなく断ってしまったんです」。もしここで勧めを受けていたら、1952年に日本人女性初の四大大会出場を果たした加茂幸子さんより約15年早く、グランドスラムプレーヤーが誕生していたことになる。
岡田さんが最初に握ったラケットは軟式だった。東京府立第二高女(現竹早高校)4年の時に硬式に転向。放課後、同級生の林さんらと一緒に、東京・小石川にあった三井財閥の三井高修邸のテニスコートで練習した。「そこでは元デ杯選手の福田雅之助さんや安部民雄さんたちがのんびりテニスをなさっていて、手ほどきも受けました」。シーズンオフには、佐藤次郎氏ら現役デ杯選手も顔を見せた。佐藤氏といえば全仏や全英でベスト4入りし、1933年には世界ランク3位を記録している。だが、1934年4月5日、デ杯遠征途上のマラッカ海峡で船から身を投げ、26歳でこの世を去った。この時、彼の「婚約者」として、岡田さんの元に海外からも弔電が届けられた。だが、「彼が一方的に婚約を発表しただけ。本当は婚約者ではなかった」と明かす。1934年、デ杯出発を控えたある日、岡田さん父娘は佐藤氏に呼ばれて銀座の喫茶店「富士アイス」に出かけた。そこは婚約発表の席だった。婚約を交わした覚えはない。2人きりで話したことすらほとんどなかった。だが、「デ杯出発前に動揺させてはいけない」と考え、その場で否定することは控えた。秋までは帰国しないから、後でどうにかなるだろう」と思っていた。だが、彼が自殺したことで、否定する機会は二度と訪れなかった。
その後、結婚、出産をへてアマチュアとして全日本に再挑戦した。全盛期を過ぎ、シングルスのタイトルを望むのは厳しかったが、女子ダブルスで4回、混合ダブルスで1回、それぞれ優勝している。最後に宮城黎子さんと組んで優勝した時は46歳になっていた。90歳(インタビュー時)になっても、「以前に比べてボレーも得意になっているし、苦手だったバックも打てるようになった。トップスピンロブも覚えたし……いまだに進歩しているんですよ」とたのもしい笑顔を見せた。
【取材日2003年1月】東京都・新宿区市ヶ谷のご自宅にて
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プロフィール
岡田 早苗(おかだ(いのうえ)・さなえ)
- 1913年5月生まれ。東京出身。
- 日本女子テニス連盟名誉会長。
主な戦績
- 1933~35年全日本選手権単準優勝。
- 1934,35,46~47、56、59年同複優勝。
- 1947年同混合優勝。
- 1936年10月、日米国際庭球戦で米国人女子プロと対戦。
- 日本初の女子プロテニスプレーヤー。