【第1回】大阪女学院でテニスと出会う/遊びのように始まったテニス
■大阪女学院でテニスと出会う
1939年1月1日の元旦生まれです。父は川上赳(たけし)、母はみどり。3姉妹の長女として、大阪の上本町にある聖バルナバ病院で生まれました。最初は西成区の玉出にいましたが、戦争で親戚のいた和歌山県の橋本に疎開して、橋本の学文路(かむろ)小学校に入学しました。大阪に戻ったのは小学3年の時で、布施市(現在の東大阪市)にあった布施第三小(当時)に編入しました。
子供の頃は野球が好きでした。焼野原の空き地で男の子に混じって、女の子は一人だけでしたが、草野球をしていました。自分たちが作ったボールで遊んでいました。ポジションは捕手、肩が良くてボール投げが得意で打つ方も得意でしたね。また、小学3年から中学2年まで小学校の向かいにあった島晴美先生のバレー教室に通っていました。クラシックバレーです。それで体のバランスが良くなって運動能力の基礎になったと思います。
中学から高校まで大阪女学院に通っていました。中学2年のころにソフトボール部ができて、捕手をやりました。高校では駆り出されていろんなことをやりました。バレー部に入ったんですが、陸上部にすごく熱心な先生がいて、女子にしたら肩がすごく良かったので、それなら投てきをやればという感じでやり投げをやって、国体の予選に出ました。
学校の敷地の中にはテニスコートが2面ありました。テニス部としては軟式(ソフト)テニス部ができたんですけど、私は軟式には全然興味がありませんでした。大阪女学院はミッションスクールですから、アメリカから来た宣教師の先生がいて、その先生たちが硬式のテニスをしているのをたまたま見る機会があって、それがテニスとのかかわりの始まりです。ボールを打つ音がすごくよく、それが中学3年生ぐらいでした。
■遊びのように始まったテニス
当時、学校の敷地の中には土地を借りて校庭にバラックを建て、養鶏場をやっている高田成章さんがいました。高田さんは戦前、満州に渡って小学校の校長先生をしていて、戦後に引き揚げてきた。引き揚げの時に満州で奥さんや子供さんなど6人の家族全員を亡くすなど苦労された方です。私たちは高田さんのことを「用務員のおじさん」と呼んでいたんですが、バラックの前にはブドウや柿を植えたり、スイカを植えたりしていた。当時は自給自足の時代ですから、まあいろんなものを、子供たちが喜ぶようなものを作ってくれて、それを食べに行ってました。
高校に入ってから、この高田さんとテニスみたいなことを始めました。板打ちから始まってだんだんボールを打ち合って。クラブが終わった午後4時くらいから日が暮れるまで、2時間ぐらいテニスをしてたっていう感じです。私は初めてですが、高田さんもテニスをしたことはありませんでしたね。最初、用具は職員室に行って宣教師の先生から借りていましたが、高田さんは自分がテニスをやりたいから、私にラケットを買ってくれました。高田さんは面倒見のいい方で、学校の水泳の授業では見守り役みたいなことをしたりしていて、後にはテニス部の監督もされていました。
大阪女学院の後輩に66年の全日本選手権で優勝した小幡陽子さんがいました。彼女は中学の時には軟式をやっていて強かったんです。私が高校2年の終わりころに、戦前の全日本選手権で優勝している戸田定代さんがジュニアの女子トーナメントを作られた。まあ新人戦ですね。このトーナメントに私は小幡さんと組んで出たんです。甲子園クラブでの大会でしたが、私にとってこれが初めての試合でした。そこでベスト4ぐらいに残っちゃって、それから病みつきになりました。小幡さんは甲子園の近くに家があったので、多分、甲子園テニスクラブで教わってたんじゃないかなとは思いますけど、上手だったですよ、最初から。
戦後間もなくで女子は選手がいなかった。男子は甲南、関西学院とか関大とか、そういうところが盛んにやっていたが、女子はメンバーほとんどいない感じですね。関西では女子でテニスをする人の数は本当に数えるほどでした。でも、関東は聖心とか学習院とかが盛んにテニスをしていたんです。関西は家にテニスコートがある裕福な家庭の人たちが、小さい時からテニスをするっていう世界でした。
【第2回】大阪造幣局、そして東京へ
高校卒業して1年間、大阪にあったスポーツニッポン新聞社に勤めて、販売促進部で雑用的な仕事をしました。まあ、アルバイトのような感じでしたが、朝の10時から夜遅くまで仕事で、テニスがあまりできないんですよ。それで、どこか別のところで仕事をしながらテニスをできないかと高田成章さんに相談して、大阪造幣局に就職させてもらった。テニスがしたいがために行ったんですね。造幣局では装金課に勤めました。メダルや褒章を作る部署で職工みたいなことをしてました。
造幣局には官舎や病院があって、テニスコートも2面ありました。仕事は朝の8時に始まって午後4時には終わるんです。仕事が終われば日暮れまでテニスができる、そういう環境をまず探して、そこに就職したんです。造幣局時代は、官舎に職員の息子さんで関大の学生がいて、その人と朝は6時から8時まで、夕方は午後4時から日没まで、練習ができました。
造幣局に入って2年ほどして、関西の女子の層が薄かったこともあるんですが、関西選手権に出場してベスト8に残っちゃったんですね。それで全日本選手権に出場できることになった。これがずっと大阪にいた私が東京に出ていくきっかけになったんです。
全日本選手権に出場できることになって、 高田さんがそれじゃあ全日本の前に1回東京まで行こう、試合に行こうよ、と言ったんです。それで1960年9月の毎日選手権に出場しました。毎日選手権の1回戦で誰に当たったかというと、 早稲田大で全日本学生を2連覇した福井昭子さんでした。朝日生命に入ったばかりの福井さんと1回戦で当たった。それで見事にダンゴダンゴ(0-6、0-6)で負けたわけです。全然相手にならなかった。
当時の関西のテニスは、ロブでつないでストロークを続けるようなタイプばかりだったんですね。私はその中でも、ボレーやスマッシュができるテニスだったので、関東では通用するんじゃないかと行ったら、見事に負けちゃった。その時、偶然ですけれども、福井さんの母校の早大で指導する福田雅之助さんが試合を見ていた。それで試合に負けて帰ってきたら、「川上さん、ちょっといらっしゃい」と言われたんです。そして「君ね、そのグリップじゃねえ、バックハンドは打てないよ」と言われた。その時の私は誰にも教わったことないわけですからね、ハンマーグリップになっていた。いわゆるシェークハンドでもなんでもなくて、ハンマーグリップで握っていたから、サーブなんかはすごくいいんですよね。だけどバックハンドは安定しない。フォアハンドは何とかなっても、バックハンドは打てない。チョップみたいになってしまう。それで、「あのね君ね、こういう風にしてグリップ握るんだよ」と初めて教えてくれたのが、福田さんだったんです。
【第3回】朝日生命に途中入社
毎日選手権の試合は、対戦相手の福井昭子さんが朝日生命のメンバーだったから、朝日生命人事部の次長さんが見ていたんです。私と一緒に大会に行っていた高田成章さんがその人に「一度、この子のテニスを見てもらえないか。あなたの会社で面倒を見てもらえないか」と直談判したんです、その場で。そしたら、面白いと思われたんだと思うんですね、「明日、日曜日で社長も来るから、朝日生命のコートにいらっしゃい」と返答してくれた。それで、翌日朝日生命のコートに行ったんですね。コートは今は新宿の朝日生命ビルになっている場所にありました。
朝日生命のコートに行くと、そこには人事次長さん、厚生部長と一緒に藤川博社長がいたんです。それで私が入って、4人でダブルスをした。ゲームの中では、私のスマッシュが厚生部長さんに当たって、部長の眼鏡が飛んじゃったというハプニングがあって、みんな笑っていた。私はもう絶対落ちると思ったんですが、藤川社長は「この子は面白いじゃないか」ということになった。すぐ人事部長を呼んで「この子の面倒を見てやれ」と言ってくれたんです。
翌日の月曜日に人事部長のところに行ったら、「ちょうど女子は4人のチームのところで3人だけだから1人空いている。じゃあ来るか」という話になったんです。「行きます」と返事をした後に、その部長さんは「来年の4月からね」と言うんです。毎日選手権があったのは9月ですから、「来年4月まで待てません。即刻入れてくださいって」とまた交渉して、10月からでお願いしますって。親にも相談しないで決めてしまったんです。それで造幣局から朝日生命に移ったんですよ。スポーツニッポンから造幣局、そして朝日生命、目まぐるしい変わりようですよ。
朝日生命はその頃にしたら優遇してくれました。「君はね、年齢はあれだから、短大卒業の給料で雇ってあげる」と言ってくれて、そのまま大阪から東京に出てきた感じですね。朝日生命の藤川社長は、研修会で英国に行かれた時にテニスを覚えられた方なんですよね。学生時代からプレーされてたわけじゃないんですが、ただ、テニスを全国に広めることは保険会社としては有効だということで、会社にチームを作った。だから、男子はデ杯選手だった高山雄次さんら6人、女子が4人で、社長が全国行脚する際について行った。
<藤川博社長が就任した朝日生命は1953年、会社のPR活動にテニスを積極的に活用するようになった。45歳以上の壮年男子と女子による朝日生命庭球大会をスタートさせると、地方へのテニス普及のため56年からは朝日生命テニス教室を全国各地で開催した。そのため大学などで活躍したトップ選手を採用、各地のテニス教室に講師として派遣した。また、84年から17年間、朝日レディース(現・全国レディース)を協賛企業として支援した>
私はテニスをろくすっぽ知らないのにそれにくっついて行って、そこで勉強した。メンバーには大学でテニスをした人がいて、そこで教わったという感じですね。保険に入ってくださった方たちを対象にやったんですが、しばらくしてから日本生命もテニス部ができましたし、いくつかの企業がチームを組んでテニスを始めた。今考えると普及の最先端を行っていたと思います。これが全国レディースの発祥なんですよ。
<朝日生命では2度目の出場となる61年の全日本選手権で、混合ダブルスに優勝した>
この時のパートナーは久保嘉定さんで、私はコートの三分の一を守って、あとは彼がテニスをするという感じだったんです。
【第4回】結婚、退社してテニスクラブへ
1962年に23歳で結婚しました。相手は東京の狛江にコート4面を構える「グリーンテニスクラブ」のオーナーの飯田太郎。テニスでは東京代表として初めて国体に出場した年です。狛江のクラブは民間で作った日本で第一号のテニスクラブだと思うんです。クラブでテニスができるということで、会社は辞めました。私はテニスが大事なんです(笑)。
<飯田太郎は個人が開設した民間テニスクラブの嚆矢となるグリーンテニスクラブを1954年に東京都狛江市(当時は狛江町)に開設した。飯田は後に続くクラブを支援して、88年に日本テニスクラブ連盟が発足すると初代会長となり、92年に設立された日本テニス事業協会でも会長を務めた>
クラブのオーナーといっても、当時、主人は通産省に勤める技師でもありました。主人との出会いは高校3年くらいの時です。大阪に出張できていた主人が、何か用があって大阪女学院を訪れていて、そこで初めて会いました。その時に私は東京の親戚のところに行くことになっていて、一人で行かせるのは心配だからと高田成章さんが、主人に東京まで連れて行ってくれるよう頼んだんです。それで一緒に汽車に乗って、13時間ぐらい。それが最初です。主人はたまたま学校に来たんじゃないですか。偶然ですね。テニスクラブのオーナーとは全然知りませんでした。
主人の祖父が狛江に土地を持っていた。通産省に勤めながら、社会貢献のためにその土地を使ってテニスクラブを始めたようです。母親は議会の議員を務めた進歩的な人で、結婚してすぐに選挙があった時には、スピーカーの付いた自動車を運転していました。選挙の運動員ですね。目まぐるしい変化ですね。
<狛江の施設が手狭になって、グリーンテニスクラブは63年に東京・町田市の鶴川に移転した>
狛江のクラブはコート4面でしたが、240人くらい会員がいました。近くに映画の撮影所があって、森雅之さんら俳優の方もたくさんメンバーでした。そこが手狭になってきて、狭すぎるというので狛江の土地を売って、鶴川に山を買ったわけです。5000坪ぐらいの山ですね。だけど、土地を買うお金はあったけれど、もう建てるお金がないから、みんな手作業で作ったんです。鶴川のテニスクラブは全部手作業ですよ。
青森から作業員に来てもらい、建設会社からブルドーザーを借りましてね、それで山の側面を削っていくんです。ところが作業員で来た人はみんな素人に近い。設計図が読めないの。それで、断面図を立体的に描いて、ここの山の土の土砂はここに移すとかいうのを全部指示して作った。1年ぐらいかかってますね。
私たちは最初からそこに移り住んだんです、山の中に。山小屋生活です。だからそれが大変でした。もう何もないところからどんどん自分たちで作っていたんで。電気が通っていないから最初はランプの生活です。道路がなくて、電話もなかった。「こどもの国(66年開園)」はまだなくて、うちのクラブが道路の終点でそこから先はあぜ道でこどもの国のほうに降りる感じ。電気も500mくらいを自分たちで引いたんです。ありがたいことに電気関係の公社みたいなところに勤めていた偉い人が会員にいて、納期は早くできた。電話は1年かかりました。下の方にある不動産屋さんに電話があって、不動産屋の人が自動車で「飯田さん電話がかかってきたよ」と来てくれました。
【第5回】ジュニアのレッスンを始める
<グリーンテニスクラブ鶴川は64年にオープンした。町田の丘陵を切り開いて段状に作られたクラブは、クレーコート8面(その後、クレー1面と芝コート1面を増設)を備え、コート4面だった狛江とは見違えるように施設となった。ただ、狛江では280人いた会員がそのまま全員鶴川に移る訳もなく、以前の倍以上のコートを抱えたクラブは150人と半減したメンバーでのスタートだった。>
メンバーが大きく減った訳ですから、最初のころウィークデーは閑古鳥が鳴いていましたね。土曜、日曜になると会員が大勢来るんですけど、平日は来る人が少なくて、私が自分の練習も兼ねてテニスをしていたって感じですね。クラブの運営が落ち着くまでに2~3年かかりました。プロ野球の関係の仕事をしていた柳原さんという人はウィークデーでも毎日のように来ていましたね。もう終始コートにいるのでその相手をしてました。女性にテニスを普及させるということでメンバーのお母さんたちを対象にスクールをやっていたんです。新しく入会してくる人はテニスをあまりしたことのない人ばっかりでしたから。それがスクールを始めた最初です。土曜、日曜は男性の会員さんが大勢来ますが、ウィークデーは女性ばっかりですよ。
ジュニアのレッスンも始めました。メンバーで入ってくる人は、みんな子供が小さいんですよ。だから、子供たちをスクールに入れておいて、その間、自分たちがプレーするという感じです。メンバーの子供たちを私たちが面倒見ていました。それがジュニア指導の始まりです。
女性のメンバーの人たちは、時間を決めてやっていました。ジュニアは最初、コートの空いている時間を使っていましたが、それがスクールの形が固まってくると、土曜と日曜の朝6時に集合して、クラブのメンバーがプレーを始める9時まで練習をしていました。その後、ナイター練習もやるようになりましたね。
<グリーンクラブでは68年夏から、グリーンジュニア・トーナメントをスタートさせた。全日本ジュニアなどほとんどの大会が少年・少女と幼年・幼女という年齢区分で行われていた当時、18歳以下、16歳以下、14歳以下というカテゴリーを採用した先進的な大会だった。第1回大会には854人が参加して、18歳以下男子シングルスではグリーンクラブのメンバーだった石原徳昭が優勝、学習院中の佐藤直子が18歳以下と16歳以下の女子シングルスで優勝している>
そのころはジュニアの大会が少なかったんです。また、全日本ジュニアは高校世代の少年、少女と中学世代の幼年、幼女の年齢区分しかなかったんですが、この区分は大雑把すぎる。2歳違えば体の大きさも全然違うので、米国流に18歳以下、16歳以下、14歳以下の大会にしました。大会はクラブのコートを使って、子供たちが夏休みに入った7月下旬に始まり、8月の中旬まで続くんですが、クラブの雰囲気がわりとファミリーで、会員の人たちがこれをやりましょうっていうような後押しをしてくれて、大会を会員の人が手伝ってくれた。会員の方が朝早く来て、大会が始まる朝9時頃まで自分たちでテニスをして、そのあとは大会にコートを貸してくれたという時代ですね。
<グリーンジュニアは第2回大会が1236人、第3回大会は2052人と参加者が増えて、全国のジュニアが集うトーナメントに育っていった。歴代出場者には丸山薫、村上武資、松岡修造らクラブのメンバーだけでなく、竹内映二、土橋登志久、井上悦子、岡川恵美子など後に日本を代表する選手たちが名前を連ねた。大会は83年まで13回、グリーンクラブで開催され、その後は会場を百合ヶ丘ファミリーテニスクラブ(川崎市)に移し、「ファミリージュニアノビストーナメント」と名前を変えて2015年まで行われた>
【第6回】出産後も現役続行
<グリーンクラブで指導に手を染めながらも、飯田は選手として大会に出場していた>
実業団はみんな、特に女子はそうだったんですけど、朝日生命の時は午前中は仕事でした。私は最初、人事課でした。午前中は仕事をしたというより、仕事場にいたって感じですね。そして午後は、当時は久我山にあったテニスコートに行ったのを覚えています。
グリーンでは、決まった練習相手はいなくて、全部自分でアレンジしてやっていました。コーチもいないですから。メンバーの学生さんと練習もしましたよ。あと自分で相手を見つけたりとか。石原徳昭くんはお父さんが狛江時代からのメンバーで、彼も小学生の時からメンバーでした。高校ではテニス部に入らずにグリーンに来ていたので、相手をして教えていました。彼の練習相手というか、自分の練習でもありましたね。高校でテニス部に入っていないと出場できる大会が3大会くらいしかないので、グリーンジュニアは彼のために始めたようなものなんですよ。
当時、ダブルスを組んでいた張晴玲さんが早大の学生だったので、早大に練習をさせてもらいに行ったりもしました。大会には出てますね。練習して大会に行くんじゃなくて、大会が練習の場だった。だから、東京選手権、関東選手権、田園オープンとか、シングルスだけでなくダブルスでもミックスダブルスももう全部。1日に3試合ぐらいずっとやってましたね。
64年に毎日選手権に出場して、ドロシー・ノードさんとシングルスの決勝戦をやったんですけど、どうも体調が悪い。暑い時期だから変だったのかと思ったら、長男が私のお腹の中に入っていたんです。それで、半年ちょっとは休んでいました。そうこうしているうちに、宮城黎子さんがクラブによく来ていたんですが、もう試合にでようよと声をかけてくれた。1年も経たないうちに、もう次の試合出てました。いや、もう無茶苦茶やってましたよこの時代は。
【第7回】37歳で現役を引退
<飯田は65年3月に長男を出産すると、8月には宮城黎子と組んで毎日選手権の女子ダブルスに出場して優勝。66年2月には東京体育館で行われた全日本室内でも宮城とのペアで優勝した。68年には長女も誕生して2児の母となるが、飯田が選手として好成績を残したのはこの後から。ジュニアの指導が結果的にプレーヤーとしての実力も伸ばしていった>
30歳になってそれから本格的にテニスを始めたという感じでしょうね。ジュニアのためにトレーニング場を作って、トレーナーに来てもらって一緒に自分も始めたんです。足や腕を鍛えるトレーニングは必要だよと言って、中野淳子、植村智子らと一緒にトレーニングをするんです。子供たちはみんなサボってるけど、私はやっていました。そしたら体力がつき始めて、ジュニアよりも自分の成績の方が上がっていったという感じですね。
<74年には35歳で初めて日本代表に選ばれて、香港で行われた第3回アジア・アマチュア選手権に畠中君代とともに出場した>
アジア選手権には不思議なことに選ばれて、香港に行くんですけどね。アジアのテニスがすごく、女の人でも力強いテニスをしてました。それでも互角には戦えたかな。それで、自分の中でのテニス観が変わりました。パワーが違うし、動きが違うし。私のテニスは割と向こうの人たちに合うんだなっていうのも実感しました。
<全日本選手権の女子ダブルスでは68年に初優勝すると、74年に2度目の優勝を飾った。全日本のシングルスでも74年から3年連続でベスト4に進出した。37歳で迎えた77年全日本のシングルスはベスト8だったが、この年から始まった全日本ローンコート選手権ではシングルスで優勝した。飯田はこの年で現役生活にピリオドを打った>
37歳になった時に、選手(ジュニア)がすごく強くなってきたんです。教えている丸山薫たちが上手になってきた。もう片手間に教えていられないので、選手をやめたって感じです。本腰を入れてみようとしたわけです。
<77年の関東ジュニア14歳以下は丸山薫と中村聡一というグリーン同士の男子シングルス決勝となり丸山が優勝した。12歳以下の女子シングルスでも西谷明美が優勝した。13歳だった丸山は、全日本ジュニア14歳以下の男子シングルスでも優勝、中村と組んだ男子ダブルスも優勝と、ジュニアたちは好成績を残していた>
【第8回】ジュニアの海外遠征を始める
<飯田が指導したジュニア「一期生」を代表するのが中野淳子と植村智子だ。クラブメンバーの子供だった2人は小学生の時に飯田からテニスの手ほどきを受けた。68年のグリーンジュニア創設と相前後する時期だった。グリーンジュニアで優勝して、高校進学を機に大阪から東京に移ってきた米沢徹も途中から加わった>
ジュニアは最初、中野淳子、植村智子、米沢徹など4、5人の小さなものでした。自分の練習も兼ねて、コートが空いている時は毎日のようにやっていました。それが段々にしっかりスクールみたいな形になっていったんです。
<飯田は71年、宮城黎子さんに「海外を見ておいた方がいいよ」と誘われて、クラブのメンバーなど13人でハワイへの「テニスツアー」を行った>
初めての海外ですから、すごく刺激を受けました。ハワイでは普通の人たちが市民コートみたいなところを自由に使えて、テニスをしていた。そこで市民クラブの人たちと一緒にテニスした。日本から海外を見るとすごく遠いですよね、どちらかといえば。でも向こうから日本を見たらすごく近く感じた。それで子供たちにも、一度外に出て日本を見させるのがいいということで、その後、中野たちを海外に連れて行くことになったんです。そのころはオレンジボウルに日本庭球協会がジュニアを派遣していましたが、毎年2~3人でそれも男子ばかり。ほとんど女子は連れて行っていませんからね。
<飯田は73年夏、中野と植村を米国・モデストのテニスキャンプに連れて行った。その後に続くグリーンクラブのジュニア海外遠征の始まりだった>
私も一緒に行きました。小さなクラブのキャンプでレッスンを受けるのがメーンです。対抗戦みたいな試合には出ていたかもしれませんが、大会出場が目的ではありません。私は最初の1週間で帰ってきて、あとは塚越亘さんに面倒を見てもらいました。塚越さんはスキーのインストラクターを米国でやっていて、夏になると山から下のキャンプに降りてきてテニスクラブでアルバイトをしていた。宮城黎子さんに紹介されて、それで預けて帰ってきました。
その次の年には全豪オープン前後のジュニアの大会に中野、植村と米沢を連れて行ったんです。その後、米沢くんは高校2年の時に来日していたオーストラリアのファンカット・コーチに見込まれて、ブリスベンの彼のアカデミーに半年ぐらい交換留学で行ってましたね。
中野、植村たちを教えていた時は少人数でやってましたけど、やっぱり競争の世界でないとダメだと思ったんです。それでそれからは20人ぐらいのクラス編成でいつもやっていました。クラブの外から来た子供は、クラブのメンバーになることが条件でした。メンバーであればクラブのコートを堂々と使えますから。メンバーにならなければスクールには入れないっていう方針を立てました。
兄弟が多かったですよ。丸山薫の兄弟や松岡修造の兄弟などですが、お兄さんたちは高校受験でやめちゃうんです、一生懸命教えていても。みんな中学3年の受験で一斉にスクールを辞めましたね。でも、その弟たちはみんな次男坊だから、受験の時期が来ても親がテニスを続けさせたんです、当時は。
【第9回】海外の指導から多くを学ぶ
<海外で見た指導方法から飯田は多くを学んだ。中でも1950年に当時の世界ランクで1位となったパンチョ・セグラ(エクアドル)のクラブで丸山薫にレッスンを受けさせた場面は印象的だった>
セグラはフォアが両手打ちのプレーヤーでした。それで米国にある彼のクラブに小学6年ぐらいだった丸山を連れて行って、両手打ちを教えて欲しいとプライベートレッスンを取ったんです。1ドル360円の時代、1時間で80ドルでした。何をするか見ていると、セグラはいきなりゲームを始めたんです。そこで彼はいきなりドロップショットをやるんです。小さい子供相手にサーブを打ってボールが返ってくると全部、ネット際のドロップショット。丸山が必死に走ってやっと拾っても、バシッと決めてしまう。それで6-0、6-0で終わると、セグラは丸山を呼んで言うんです。「君は自分の弱点が分かったか」。丸山にそれを分析させると、「君はそれだけのハンディがあるんだから、そのハンディをどうするか考えないとだめだ」。
日本は一からから十まで手取り足取り教えるんだけど、それをするんじゃなく、 何が自分の弱点で、何が自分の長所なのかを自分の頭で考えさせるということを勉強しました。その子の能力をいかに引き出すかっていうことです。私も一から十まですべてを教えるってことはしなかった。その代わり拘束もしない。コートの中で自由に自分のやりたい形をやらせて、そして訂正していくというようなやり方でした。何が自分の弱点で、何が自分の特徴かということを自分の頭で考える。そうするとポイントを取るために何かをしなきゃいけないって頭がやっぱ働くものなんです。いろんな工夫をするとそれが見事にあの年代の大会で結果に出てくるんですよ。
私は女子にしたら珍しいぐらいのネットプレーヤーでした。サーブからのボレーやスマッシュというテニスが海外に行ったら通用するんだっていうことを感じていたので、それに沿って指導方針は組み立てていました。その当時の日本は、ストロークだけ、フォアハンドだけというようなテニスだったと思います。将来的に世界で通用するテニスじゃないとこれからは強くならないということも考えて、割と子供たちに自由にプレーさせていましたね。 強制はしてなかったですよ。怒ったりすることは一切なかったです、私の方針は。自由だったから子供たちはのびのびしていましたね。
クラス分けは結構厳しくやっていました。グリーンではコート3面を使って、朝の6時から照明をつけて練習するんです。1番、2番、3番のコートを使っていましたが、子供たちをクラス分けしてコートに入れるんです。そうするとみんな上のクラスのコートに上がりたくて頑張ってるわけ。そういう感じでしたよ。自分が頑張ればあそこに行けるっていう目標設定はすごくやっていました。それを狙って3か月に1回ずつぐらいクラス替えをしていました。
【第10回】広がるジュニア育成の輪
スクールが終わった後も、子供たちは大人のメンバーの中に入ってテニスをしてもらったりもしていました。ベテランの人がよく練習相手をしてくれたんです。また、試合に行くとみんなが弁当を持って応援に来てくれたりしていました。そういう雰囲気は今はないですね。
その頃はテニスだけやっていたわけじゃないです。子育てをしながらクラブを経営したり、クラブの雑用をこなしたり、もう寝る暇もないぐらい働いていました。今もテニスクラブは大変みたいですけど、当時のクラブの経営はもっと大変ですよ。クラブで働く人たちは高校を卒業したテニス部員で、テニスに関わっていけるならば、という人たちでした。地方から出てきた人が多かったので、みんな我が家に住み込んでいました。そこに関西から出てきた米沢くんが下宿したり、青森から出てきた花田巌くん、北海道の山室智明くんとかが中学校に上がる時に来て、一緒に生活していたこともありました。クラブハウス2階と離れを使って、合宿所みたいになっていましたね。働いている人と子供が1人とか2人とか増えてくるんで、10人位で寮生活をしているみたいな感じです。
<70年代後半からはグリーンと町田ローンなどのジュニアが合同で米国遠征を行った。フロリダのオレンジボウルに出場、ホップマン・キャンプやニック・ボロテリーのキャンプでレッスンを受けた>
私がグリーンジュニアを始めた頃、町田ローン(テニスクラブ)の三浦允行コーチは女子をやっていたんです。井上悦子さんとか溝口美貴さんとか。それで毎年、冬休みを利用して一緒にアメリカ遠征をしました。中学1年から高校1年ぐらいのメンバーだったかな。町田ローンの女子とグリーンの男子を連れて行った。グリーンのメンバーは、向こうに行って試合に出られそうな選手という感じでしたね。ほぼ毎年やってました。冬の間、日本ではトーナメントがなかったですから、それでフロリダの方に連れて行ってオレンジボウルに出たんです。その当時は遠征に50万円ぐらいかかりましたね。親御さんを説得したのを覚えてます。「もし20歳の時に着物を買ってあげようと思っているのだったら、ここで50万円をかける価値あるんじゃないですか」とね。そしたらお母さんが散々考えて、「じゃあ行かせます」なんて言ってくれた。1ドル360円の時代です。
グリーンには、国際テニス連盟の理事を務めた川廷榮一さんが連れて来てくれたりして、外国の選手、コーチが大勢来ていました。川廷さんのおかげでケン・ローズウォール(豪)のクリニックもやりましたし、ファンカット夫妻(豪)が来ていろんなことを教えてくれました。自分たちはこうやっているというクリニックを随分してくれました。それを私たちは活用して、日本のジュニア・クリニックを作っていきました。
<飯田のまわりでジュニア育成を手掛けるクラブが増え、1978年には関東テニス協会にジュニア委員会が設置された>
関東テニス協会にジュニア委員会を作ってもらったのは、高島隆平会長、永草重三理事長の時でした。高橋会長、永草理事長はすごく理解があって、猛反対した人もいたんですが、ジュニア委員会が設立されました。その後、ライオンに協賛金をもらって関東協会のジュニアリーグを作ったんですよ。その成績上位の選手は海外遠征に送り出しました。それが3年間続きました。
【第11回】グリーンから桜田倶楽部へ
<グリーンのジュニアたちが好成績を残すようになると、スクールの生徒が増加していった>
ただ、ジュニアのスクールが大きくなってくると、だんだんコートを確保するのが難しくなっていった。20人ぐらいだった人数が増えていって、メンバーのコートを子どもたちが独占しちゃうみたいなことになる。スクールが80人くらいになるとメンバーからやっぱり苦情が出てきた。それでどうしようもなくなっていたところに、ちょうど桜田倶楽部の秋山一さんが「深大寺にコートが何面かあるから、そこでやりましょう」って言って、私を呼んでくれた。そこから桜田倶楽部が始まったんです。
その当時のメンバーから、最終的に選手になりたいという丸山、中村、松岡とか20人ぐらいを連れて桜田に移ったんですよ。それが桜田の一期生。桜田から入ったのは渡辺大輔とか山本育史たちです。辻野隆三は後から入ってきました。
<桜田倶楽部は秋山一が東京都調布市の自宅に所有して企業に貸していたテニスコートが母体となった。飯田は1980年、中村聡一、丸山薫、松岡修造、岡田善和、西谷明美、飯田栄、丸山淳一らを連れてそこに移って行った。80年に創設された東京テニスカレッジは81年に桜田倶楽部東京テニスカレッジとしてジュニア育成プログラムを本格スタートさせる。飯田はゼネラルマネジャーに就任した>
指導自体はグリーンにいた時と同じです。子どもたちの上が高校1年か中学3年ぐらい、小さい子どもたちがほとんどでした。高校生はほとんどいなかった。ちょうどその頃あちこちにテニスクラブができ始めて、ジュニア育成をするところが多くなってきた頃でした。千葉の花見川で指導していた橋爪功さんと東京・国立で教えていた丸山弘一さんは、アメリカ遠征に出かけたときに一緒に行ったことがきっかけでお誘いしたら、「やりましょう」ということで来てくださった。その方たちが来て本格的に始まっていったという感じですね。
【第12回】個性豊かなジュニアたち
目標は日本だけでなく世界に通用する選手の育成です。海外遠征で外の世界に行ったことによって、それが生まれてきたんです。1年に1回、冬にジュニアたちを海外に連れて行きますから、私たちコーチも一緒に行って、海外でいろんな勉強をして持ち帰って、それを日本の中で取り入れてっていうのが何年も続きましたね。
ジュニアトーナメントはグリーンクラブから始めていましたが、関東エリアで湘南スポーツセンター、京王テニスクラブと一緒にやって、東京ジュニアサーキットが始まるんです。それは2年くらいで、3年目から湘南と柏ローンと桜田倶楽部の3か所でサーキットをやり始めた。
その頃はいろんなことを手出していて、桜田倶楽部が落ち着いた5年目か6年目にはテニスの指導教本を作っています。その頃は指導教本がなくて、それで始まった。日本テニス協会にも本がない時代ですから、指導教本を何百冊か作って全国でジュニアを育成しているクラブに贈りました。各地のクラブでジュニア育成が盛んになっていきましたね。
桜田倶楽部には個性豊かな選手がいっぱいいました、丸山薫とか金子英樹とか。フォア、バックとも両手打ちだった丸山の場合は本当に小さい時から見てたんで、お父さんとテニスのスタイルに関しては議論をしました。フォアハンドは片手の方がいいんじゃないかって話した時期もありましたが、お父さんが「1人ぐらいこういう変わったのがいてもいいんじゃないのか」という考えで、じゃあ片手にしないでフォアも両手打ちでいきましょうっていうことになったんです。その後しばらくしたら、両手打ちがすごく流行ったんですよね、女子も男子も。金子は途中から入って来たんですが、中学の時に1年間、お母さんと米国のホップマン・キャンプに行っていました。
【第13回】ジュニアの目標は打倒・柳川
最初のころ子供たちは、学校から午後に帰ってきて、夕方から夜にかけて練習していました、夜間照明のない時代もありましたから。その後3年ぐらい経ってから堀越学園と提携して、午前中は学校に行って午後はここでテニスをするというスタイルをやり始めた。それが学校との提携の始まりです。あの頃はそういうところはほとんどなかった。堀越は軟式(ソフトテニス)しかやってなかったんです。それで軟式の先生が部活動のチーフになって、午前中は学校で勉強しないとテニスはさせないって厳しく指導をしていました。それで午後からは桜田倶楽部にきて夜遅くまでテニスをしていました。
<1960年代後半から80年代前半は福岡の柳川商高(現・柳川高)が全国大会を席巻していた。古賀通生総監督、田島幹夫監督のコンビが1日7時間の猛練習で選手を鍛え高校総体の男子団体では80年まで14年連続優勝、全日本ジュニアの男子18歳以下でも69年から80年までの12年間で8度、柳川の選手が制していた。81年の全日本ジュニアでは中村聡一が決勝で柳川勢を破り優勝、82年も丸山薫が優勝した>
ジュニアは高校テニスが中心で、柳川が高校総体で何年も優勝していた時代でした。そういう時に中村とか丸山たちが「全日本ジュニアは絶対に自分たちが取るんだ」と言っていました。
松岡修造も桜田倶楽部にいたんですが、高校に入ると相談があるとやって来て「柳川に行きたい」と言うんです。どうしてか尋ねると、「ここにいたらなるダメになるから、軍隊みたいなところに行ってテニスしたい」と言ったんです。柳川の古賀先生は生徒を連れてきてグリーンクラブで合宿をしたこともあるので知っていましたが、テニスの土壌は桜田倶楽部とは正反対のスパルタ教育でした。修造は1年で、もう体が壊れちゃいますって帰ってきた。そんなこともありましたね。修造はその後、米国のホップマン・キャンプに行って世界の舞台に飛び出して行きました。
【第14回】スタッフの熱意が全日本王者を生む
中村聡一とか丸山薫の頃は、選手は別々の高校に行っていたんですが、辻野隆三、岡田岳二とかになると堀越学園に入っていたから、高校総体の団体戦で柳川に勝った年もありました。その頃になるとクラブでやっているジュニアたちは大体、堀越でしたね。
<堀越は86年に決勝で柳川を破って高校総体団体で初優勝を果たすと88年まで3連覇、さらに90年、94年に優勝するなど団体で7度全国を制覇した>
選手たちがジュニアを卒業してからは各自にまかせていました。大学に進む子、進まない子、テニスで米国の大学に留学する子、いろいろでした。プロを目指す子はプロになるまではいましたね。自由に練習できる場所はそうないですから。プロになるとコーチがついて練習場所がどんどん変わっていったりはしてましたけど、1年に1回か2回はOB、OG会ということでみんな集まってきました。クラブで練習しているジュニアにとっては彼ら、彼女らが目標になりますから、次々にいい結果を出してましたね。卒業した人たちはみんな後輩たちの面倒見がいいんですよ。ちょっとクラブに来たらジュニアと打ってくれた。
<選手たちは全日本選手権でも好成績をのこした。丸山薫は17歳だった82年の全日本でベスト4に進むと、84年にも再びベスト4に進出、中村聡一が86年全日本で決勝まで進んだ。87年の全日本女子ダブルスで飯田栄/西谷明美ペアがタイトルを獲得すると、91年には20歳の山本育史が桜田勢として男子シングルス初優勝を飾った。その後、増田健太郎、金子英樹、鈴木貴男、石井弥起と女子の佐伯美穂と桜田倶楽部出身のプレーヤーが全日本シングルスのタイトルを獲得した。丸山薫、松岡修造、山本育史、辻野隆三、鈴木貴男、金子英樹、石井弥起はデ杯代表としても活躍した>
クラブのジュニアは最後の方は70人ぐらいいたんじゃないかな。その時はコートは7面か8面ありましたから、クラス分けを3か月に1回ずつやって、成績が上がると上のクラスに上がっていくっていうような仕組みを作っていました。堀越に行っている子は昼頃から、他の学校に行っている子は夕方からの練習で、夜9時ごろまでやっていました。ものすごく長いですよ。あの頃はコーチ料金も高くないし、コーチはみんなボランティアみたいなのが多かったです。今みたいだったらもっとシステマティックに教えられたんでしょうけど、当時はお金を取るということ自体も難しい時代でした。私も朝5時半頃から学校に行くまでの間、色んな選手を相手にずっと継続的にプライベートレッスンをお金を取らないでやってました。
【第15回】桜田倶楽部を離れる
<飯田は2000年に桜田倶楽部を「引退」する>
ちょうどオーナーのお嬢さんたちが戻ってきたので、バトンタッチするのもいいかなと思って私が引いたんです。私は97年に日本テニス協会の普及指導委員長、99年からは強化委員長をするなど協会の仕事も始めていましたから、そこから何年間かは協会でいろんなことをやりました。
強化は1年半ぐらいしかいなかったかな。2年目にナショナルトレーニングセンターが西が丘(東京)にできたんです。西が丘に移った時にそこ独自のものを研究室として作るっていうんで学校の先生たちも加わって、 コーチたちが変わっていった時代です。その後、私たちができることは普及だということで、指導者養成なんかもやっていましたね。その頃は指導の手引きのようなものが何もなかったので、桜田倶楽部時代に作った教本をベースにして強化指導教本を作りました。
強化についてはみんなが注目するので、そこで協力してくれる人たちは結構いたんです。コーチたちは自分でスポンサーを持っていて、自分の生活のベースがある。それで、強化からいくらかのお金が降りてくればやっていける。今もそうかもしれませんけど、そういう体制だったんです。ところが普及の方はお金がなくて、仕組みがうまく回っていかなかったんです。それで、そこをなんとかしようとやっていました。
それから指導者育成委員会を作ったり、中体連がなかなかうまくいかないからそれに手をつけたりしました。S級ライセンスを作ったのも私たちです。トップ選手を育てるためにツアーコーチを作りたいって協会に提案してスタートさせたんです。
そのころ日本テニスクラブ連盟(現・日本テニス事業協会)では吉田記念テニス研修センター(TTC)の吉田宗弘さんが海外からコーチを年1回招へいして、関東や関西でコーチ研修会を開いていました。ジャパンオープンに選手のコーチとして来日していたドイツのショーンボーンが講師になった時があって、そこで科学的分析に基づく理論を知りました。専修大の佐藤雅幸先生が翻訳した「ショーンボーンのテニスコーチングBOOK」という本があるんですが、それがS級ライセンスの元になってるんです。今は変わったかもしれませんが丸山薫やそのあたりのコーチは120時間勉強しなきゃライセンス取れなかった。S級コーチのライセンスシステムには1000万円ぐらいお金集めないといけないっていうので、専務理事の渡邊康二さんと2人で20社ぐらい回りましたよ。
【第16回】女子連には発足当初から参加
<女子テニスの強化、普及を自らの手で進めようと女子庭球連盟(女子連=現・日本女子テニス連盟)が発足したのは1968年。飯田はスタート当初からこの活動にかかわってきた。63年に始まった女子国別対抗戦のフェデレーションカップ(現ビリー・ジーン・キング・カップ)に日本は64年、65年と出場したが、その後は派遣が見送られ、ジュニアの海外派遣もほとんど男子だけという状況を変えようという女子有志の集まりだった>
女子のための普及をしようって67年の全日本選手権のときに声を掛けてもらいました。私が28歳のときです。宮城黎子さん、井上早苗さんとかはお母さんみたいな人たち、桑名寿枝子さんはおばあさん。私たちが一番若手で20何人の役員の中に入れていただいたのが最初ですね。それから女子連の活動が始まった。10年は小さな関東エリアの集まりでした。77年に神宮テニスクラブで10周年のお祝いの会をした頃から、ほかの地域に目を向け始めて、集まりを作ろうということが始まった。地方にはまだ女子だけの集まりはなかったんです。
<10周年を機に女子連は東京・調布に事務所を構え、全国的な活動を展開した。全国レディース硬式大会(現・ソニー生命カップ全国レディース)が始まったのは79年のこと>
全国レディースの最初のスポンサーは味の素だったんです。味の素がスポンサーだったのは2年間。3年目は私たちも自腹を切ってお手伝いして、朝日新聞も持ち出してやったんです。その後に朝日生命が入ってくれて朝日レディースになった。朝日生命には10年以上やっていただいて、その後ソニー生命に移ったわけです。朝日新聞の100周年記念事業のひとつで、朝日新聞と女子連で大会を作りました。朝日新聞の宣伝部の人がいい人で、私たちの意見を全部入れてくれて、団体戦にして甲子園の高校野球みたいにしようっていう話になった。大会は朝日新聞と日本テニス協会が共催でしたが、テニス協会の陸田清理事長が桑名さん任せたよって言ってくださったおかげで、内容がすごく充実しました。
最初のころは予選のない地域もありました。女子連も都道府県すべてに支部はできていなかったんです。全日本に出たようなプレーヤーをとにかくヘッドにして支部作りをしてもらいました。スポンサーさんのおかげで全国を回れるようになって地方の組織づくりも進みました。90年に全国47支部ができました。
【第17回】日韓親善も始まる
<全国レディースが始まった79年には正式に日韓親善女子テニス大会も始まった>
私が鶴川のグリーンクラブにいた時に、韓国から金先生という方が「韓国の学校にテニスコートを作りたいから、コートの作り方とメンテナンス方法を教えてほしい」と尋ねて来たんです。それでうちの主人(飯田太郎)が韓国に何回も行って、1年がかりでコートを作りました。その縁で私たち家族が韓国を訪問したんですが、そこで韓国で女子の活動している人を紹介されて、それでいろいろ交流しているうちに、日韓の親善試合をしましょうという申し出があったんです。
その当時、韓国の女性は海外になかなか出られなかったので、私たちに招へいしてほしかったのだと思います。それで日本協会にビザが発給できるようにして下さいとお願いをした。最初の2年は桜田?楽部でやりました。それから79年になって、私たちが韓国に出かけました。女子連の役員たちが全部自腹を切ってです。私たちは気楽な親睦だと思っていたのですが、向こうはピシッとブレザーを着ていた。開会式も国旗を持って行進するような形になっていたんです。私たちは親睦のつもりで気楽に出たから、国旗は持っていないし、ユニフォームなんかもありませんでした。そんなに向こうが意気込んでいるとは知らなかったんです。困っていたら、グリーンクラブに来ていた金先生が私たちのために走り回ってくれた。行進用の日の丸を作ってくれた上に、20人分くらいですがトレーナーを買いそろえてくれたんです。それをユニフォーム代わりにしました。
その時は学生の宿舎みたいなところに泊まっていました。桑名寿枝子さんが団長さんで行ったんですけどね、夜に部屋に行くと寒いものだから桑名さんがそのトレーナーをズボンのように足に履いてベッドにいたんです。もうその光景、忘れられません。そういうスタートで日韓の行き来が始まりました。
<81年にはフェデレーションカップが多摩川園ラケットクラブで開催された。当時は参加国・地域が一堂に会して優勝を争う方式だった。同大会は85年に愛知、89年には東京・有明で開催された>
フェデレーションカップは、日本テニス協会が運営するイベントを全日本に出場したことのある有志がお手伝いしたという感じです。多摩川園ラケットの時は井上早苗さん、宮城黎子さんたちがお手伝いをした。愛知の時は名古屋に元プレーヤーが何人もいらしたんですよ。その人たちがお手伝いしながら、主婦で愛知県の支部の人たちも大会運営を手伝ったって感じですね。女子連が運営を任されてやったっていうのは東レ・パンパシフィックになります。
【第18回】東レ・パンパシフィックに協力
<女子連の活動の柱の一つになった東レ・パンパシフィック・オープンは84年に第1回大会が始まった>
私が鶴川のグリーンクラブにいる時にビリー・ジーン・キングさんが「テニス・ラヴ」っていう本を出した。それを野地俊夫さんの奥さんの道子さんが翻訳されて、この本の監修を頼まれたことがありました。野地さんは東レ・シルック・トーナメントに関わっていて、これが縁で東レ・シルックが東レ・パンパシックに移行する時に運営を手伝ってほしいということになって、第1回から東レ・パンパシフィックに関わっている感じです。当時、女子連で上にいた宮城さん、井上さんたちはあまり賛成ではなかったんです。東レ・パンパシフィックは女子の大会だけれど、素人がそんなことをしなくていいという感じでした。 女子連として女子の大会を充実させるために、中学校の大会とかジュニアの大会を作っていたこともありましたね。
東レ・パンパシフィックの第1回の時は審判員がいないです。日本の中に国際大会の審判員をできる人が3、4人ぐらいしかいなかった。ラインズマンなんて1人もいなかったんですね。当時の学生の大会は負けた選手が審判をする「負け審」の時代ですから、ルールの勉強もしっかりやった人の数は少なかったんです。それで全日本選手権に出た人たちを集めてラインズマンをしてもらいました。第1回はそれでスタートした。東京体育館でした。そのころはラインズマンの資格とかはありませんでした。翌年からは講習会や実戦練習を積んで臨みました。野地さんはあまりテニスを知らない人だから、全部アシストしての運営ですよね。審判員の養成から会場作りとか、女子連として女子の大会を盛り上げていこうとお手伝いをしていました。
WTAの組織の中に、女子だけでやっていたところに男子が入ってきて、放映権とかいろんなことが起こってビジネス面の展開が進むと、私たちは素人だからそこには入りきれなくて、競技面だけにかかわるように変わっていきました。予算をもらって、審判や線審の育成をしていて、女子の中から国際テニス連盟(ITF)審判資格のホワイトバッジやブロンズバッジを取る人が出てきた。その中から92年のバルセロナ五輪や96年のアトランタ五輪では線審を務めたメンバーも育ってきました。審判に関してはそこが基軸になっています。
女子連では駆け出しのころは理事をやっていました。そのうち副理事長になって、理事長をやって、副会長、会長をやった。長いですね。今は名誉会長で関わっています。
85歳になり残された年月で何をしたいか考えることがあります。日本女子テニス連盟も57年活動が続き、ママさんたちはみんな我が人生の子供たちでもあります。私は日本代表になることもなく、ひたすら子供たちの次世代への道を切り開くことで楽しい人生を送ってきたのだと思います。
時代は変わります。教え子たちが次世代の子供たちに夢を与えるという目標を持ち、私のやってきたことを引き継ぐ方向で活躍してくれていることに、ありがとうという感謝の気持ちを贈りたいと思います。次世代のテニス界をより良いものにしてくれることと信じ、心より感謝します。また、数多くのテニス関係の人たちとの出会いが私の人生に彩を与えてくれたことにも感謝するばかりです。 (おわり)