[1963 ノードさんとの全日本テニス選手権決勝]
全日本選手権のシングルスを10度制覇。単複混合を合わせると全日本優勝は史上最多の30回にのぼる。長いキャリアの中で、数々のタイトルを総なめにしてきただけに、「最も思い出に残る試合」を挙げるのは困難に違いない。そう思って尋ねると、「それはノードさんとの全日本」と即答された。
1963年秋、田園コロシアム。8連覇のかかる全日本選手権の決勝で、アメリカのドロシー・ノードさんと顔を合わせた。彼女は過去10年間、全米トップ10をキープした実力者で、前年に夫の仕事の関係で来日していた。初対戦は62年の関東選手権。「世界のテニスを知るいい機会だ」と臨んだが、3‐6、0‐6の完敗。彼女に勝つためにはどうすればいいか考える日々が始まった。
幸いにもノードさんは、月に何度か東京ローンテニスクラブに宮城さんを呼んで練習してくれた。乱打をした後、試合を3セットする。そのうち、どうやれば勝てるかわかってきた。
方法は2つあると思った。ドロップショットで相手を前に出すか自分がネットにつめるか。相手のバックを攻めてコートから追い出しても、高いトップスピンロブで逃げられてしまう。そのロブときたら、「深くて高くて真上から落ちてくる。やっと追い詰めたと思っても、もとに戻ってしまった」。ベースラインで打ち合っても、延々とラリーが続くだけ。それを断ち切るしかなかった。
意を決して挑んだ決勝戦。スロースターターのノードさんから6‐3で第1セットを奪う。だが、4‐6で取られ、最終セットも2‐5とリードされた。相手のマッチポイント。「ドロップショットが目の前にいき、もうだめだと思った」が、慌てた彼女がネットした。6本ものマッチポイントをしのぎ、6‐5と逆転。あと1本に迫った。再びドロップショットを放つと、相手がフォアで返してきた。がら空きになった左サイドにフォアのストレートを鮮やかに決め、ゲームセット。8連覇を果たした。この時41歳である。
当時は外貨事情もあって、海外遠征など考えられない時代。それでも日本一を極めた宮城さんは、どうしても外国のトップ選手のプレーを見たくて、貨物船で11日間かけて全豪を見に行ったこともある。芝生のコートで華麗に舞うマーガレット・コートやイボンヌ・グラーゴンを目にし、同じスポーツとは思えなかった。
81歳になった今でも、四大大会すべてに足を運んでいる。その驚異的なパワーの源はと問うと、「テニスって難しいから、考えると面白いでしょ。好きだからやってるだけ」とさらりと言ってのけた。
【取材日2002年12月13日】世田谷区の自宅にて
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プロフィール
宮城 藜子(みやぎ・れいこ)
- 1922年(大正11年)5月27日生まれ
- 東京都出身・東京府立第三高女(現・都立駒場高校)卒
主な戦績
- 全日本選手権シングルス優勝1952.54.56-63 10勝
- 全日本選手権ダブルス優勝 1951-57.59-62 11勝
- フェドカップ 1964出場
- 全日本選手権10度の優勝は男女を通じて史上最多。
- 1964.78-82年 フェドカップ代表監督
- 現在は日本テニス協会国際大会委員、日本女子テニス連盟会長、日本文化出版「テニスクラシック」編集長