[1951 全日本選手権3連覇!]
待ち合わせ先の福岡市内のホテルに現れた隈丸さんは選手時代の写真に比べ、少しほっそりしていた。だが、当時の試合内容や交わした言葉など、半世紀以上前の記憶は驚くほど鮮明だった。3年程前にひざを痛めるまでは、週2回はコートに立ち、弱点だったフォアの研究にいそしんでいたという。全日本四連覇も、そんな情熱が原動力になったのだろう。
「当時は日本で活躍していても、世界的な実力はわからなかった。そこへラーセンが来ると聞いた。『ちょうどいい。こいつをやっつけてやろう』と思いました」
1951年、名古屋栄コート。隈丸さんは全日本選手権3連覇をかけた戦いを控え、ベンチで待機していた。すると、日本庭球協会理事らの会話が耳に入ってきた。
「とうとう天皇杯も海を渡ってアメリカに行ってしまうのか。天皇杯を持っていかれたんではかなわないので、立派なレプリカを用意した……」
誰もが世界9位のアーサー・ラーセン(米)の勝利を確信していた。ラーセンはネットプレーが得意な選手。深く食い込むボールを放ち、前に詰めてくる。隈丸さんはそのスピードに対処しきれないのではないか、と思われた。だがーー。
「はっきり覚えてますよ。センターコートに入る時は上がってたんですが、試合が始まると、バックはもちろんフォアのパスも百発百中でした。ミスは記憶にありません。特にフォアのストレートのパスがよく決まった。誰がやっているのかわからない。自分じゃないみたいでした。あっという間に終わってしまいました」
翌日の毎日新聞には「隈丸は一世一代のプレーをした」という記事が載った。初代全日本チャンピオンで同紙記者の福田雅之助氏が絶賛して書いたものだ。
「それを読んで、ますます発奮しました。『ああ福田先生もご覧になってくれたんだ』とうれしかった」。
テニスを始めたのも、ある新聞記事がきっかけだった。1934年4月。中学1年の時、元世界ランク3位の佐藤次郎氏がデ杯遠征途中、マラッカ海峡に投身自殺した。その号外を地元福岡で見て、「テニス選手ってすごいんだ」と感じ、ラケットを手にした。とはいえ、専門のコーチがいるわけではない。写真入りで打ち方を解説している洋書の日本語訳を何度も読んで独学した。
その後、デ杯選手になり、1949年から52年まで全日本で4連覇し、国内無敵を誇った。「私は下手だけど強いテニスをした。格好悪くても、1本余計に相手コートへ返せば勝てる」と話す。それは半世紀たった現在にも通じるはずだ。
【取材日2003年2月10日】福岡市内ホテルにて
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
プロフィール
隈丸 次郎(くままる・じろう)
- 1921年9月26日生まれ
- 福岡県久留米市出身。
- 慶応大卒。
- 九州テニス協会会長
主な戦績
- 1949~52年全日本選手権単優勝。
- 4連覇は男子単の最多記録。
- 51、52年複優勝。
- 51、52年デ杯代表。
- 57、58年デ杯監督。