[1961 デ杯選手選考最終予選会]
トーナメントに行くと、いつもそこに森(旧姓菅)清吉さんがいた。大会役員の森さんのイメージは「ちょっと怖そうな人」。ずっと、日本テニス協会の人だと思っていた。
「99%の人がそう思っているでしょう。でも、定年退職するまでは朝日生命の社員で、協会の仕事はボランティアで手伝っていました」。当時の肩書きは朝日生命テニス教室校長。退職時はスポーツ部長だった。同社はテニス協会のサポートをしており、協会の仕事をすることが森さんの仕事でもあった。現在は日本テニス協会の国体委員長を務めている。今も、全日本選手権やAIGジャパンオープンに行くと、森さんの姿がある。このインタビューも、森さんがアシスタント・ディレクターを務める東レ・パン・パシフィック・オープンの会場で行なわれた。
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1962年・全日本学生テニス選手権/ダブルス準優勝(W/柳恵誌郎さん)写真中央が日本庭球協会・津島会長
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1961年(昭和36年)12月9日、デ杯選手選考最終予選会の最終日。最後の切符をかけた戦いは日没近くなっても続いていた。法政大学3年の同級生、菅(森)清吉と柳恵誌郎の対戦。2人はいつものように東京・田園調布の法大合宿所から、会場の神宮テニスクラブに通っていた。
「柳(りゅう)ちゃんとは同じ釜の飯を食う仲間。寝台特急のような2段ベットで寝起きし、練習をやって、銭湯に行く。朝から晩まで一緒。このリーグ戦の行き帰りも一緒でした。『お前どうした? がんばれよ』と言い合いながら通いました」。
当時はデ杯代表を選出するリーグ戦が行なわれていた。日本のトップ選手十数人が集まり、5セットマッチを1日2回戦う。2度の予選会を勝ち抜いた選手が12月の最終予選会に進み、上位選手がデ杯代表に選出された。森さんは前年に引き続いての挑戦だった。
「選考試合はその年を飾る一大イベント。勝てばデ杯選手になれる。初めて出た時は、『絶対なってやる』とかなり意気込んでいました」。
だが、ふたを開けると11連敗。マッチポイントまでいく試合もあったが、あと1本が取れなかった。照れ隠しで、「こんな成績じゃ、相撲なら休場だよ」と笑っていた。
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1975年・デビスカップ/オーストラリア戦(日本チームの監督として/選手は坂井利郎、平井健一)
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163センチと小柄な森さん。「粘っても力負けすると思っていたから、リターンからすべて打ちまくった」。とにかく、相手より先に攻撃しようと決めていた。そうやって高校総体(インターハイ)も制した。
だが、リーグ戦の途中で当時の日本庭球協会事務局長、久保圭之助氏に言われた。「せいちゃん、それじゃあ勝てないよ」と。
その一言がデ杯選手への道につながった。翌年は、すべてエースを狙うのではなく、チャンスを見極めることを覚えた。前年、あまりにも意気込みすぎて結果を残せなかったので、肩の力を抜いた。
最終日。6勝3敗で並んだ森さんと柳さんの勝った方がデ杯代表に選ばれることになった。激しい強打の打ち合いが展開された試合は第5セットの4-3で日没順延になった。柳さんはプレースメントがとてもいい選手。お互い何度も練習や試合をしているので、手の内は知り尽くしている。どちらが大事なポイントを決められるかが鍵だった。
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1976年・デビスカップチームメンバー
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「この試合は、2人とも自分の持っているものをすべて出し切ったと思います」。
神宮テニスクラブの1番コート。午前10時の開始早々2ゲームを連取し、初のデ杯代表の座をつかんだ。最後のポイントははっきり覚えていない。柳さんのボールがネットにかかったような気がする。だが、ファイナルセットにもつれこむ熱戦を制し、「ああ、勝ったのか」とうれしさがこみ上げてきたことは覚えている。宮城淳さん、藤井道雄さん、それに推薦で選ばれた石黒修さんとともにデ杯代表に選出された。
韓国・ソウルで行なわれた東洋ゾーン1回戦。勝敗が決まった後の第5試合に出場し、ストレート勝ちを収めた。フィリピン戦ではマニラに遠征した。宮城さんがプレーヤー兼監督を務めたため、宮城さんの試合では森さんがベンチコーチに入った。灼熱の太陽が貝殻を砕いた白いコートに反射する。
「宮城さんは相手に付け入る隙を与えない。暑さで疲れているはずなのに、それを顔に出さない。完璧な戦い振りに、さすがだと思いました」。
大学を卒業し、朝日生命に入社。1968年、結婚して「菅」から「森」に姓が変わった。
1975年にデ杯監督に就任する。前年、デ杯インド戦にコーチとして同行した際、渡辺康二監督から「次の監督をやってくれないか」と言われ、「1年だけのつもりで引き受けた」。結局、監督生活は7年に及んだ。
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1976年・デビスカップチームメンバー
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監督としては、1年目のオーストラリア戦が最も思い出に残っている。インドネシアとフィリピンにともに5-0で圧勝し、東洋ゾーン準決勝に進んだ。オーストラリア戦の開催地、アデレードに行ったものの、近隣都市のダーウィンがデ杯直前に台風被害を受け、開催が危ぶまれた。
「何とかしなければと思って、選手に『ラケット出せや』と呼びかけ、オークションをやりました。売り上げを寄付し、開催にこぎつけました」。
開催前は「日本なんてお呼びではない」という雰囲気が漂っていた。相手は同年の全豪シングルス覇者のニューカムと同ダブルス覇者のデントを擁している。しかもオーストラリア選手の得意な芝生コート。スピードに慣れるため、控えの加藤幸夫選手がサービスライン付近からサーブを放ち、それをリターンする練習を繰り返した。初日、雨で試合は何度も中断を余儀なくされた。九鬼潤さんはニューカムに敗退したが、坂井利郎さんはデントから白星を挙げた。
「サーブを落としたら終わりだと思って、4-4まではとにかくキープしよう。そこまで行けばどうなるかわからないから、という作戦が当たりました」。
翌日のダブルスは坂井・平井組がニューカム・アレキサンダー組にフルセットまで善戦した。
「結果は1-4で負けましたが、最後までどうなるかわからなかった。そこまでできたことで忘れられない思い出となりました」。
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朝日生命テニス教室の生徒さん達と
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小学生の頃から、森さんの遊び場はテニスクラブだったという。祖父が東京・東伏見にあるテニスクラブの支配人をしていたからだ。毎日のようにそこを訪れ、近くの雑木林などで遊んだ。
「誰かが失敗してコートの外にボールを出すのを待っているんです。飛んでくるとそれを拾って野球をしていました」。テニスには興味がなかったが、ある日、2歳上の兄一成さんがクラブ内トーナメントで優勝カップを持ち帰ってきた。親戚や周囲の人にほめられているのを見て、自分もやってみようと思った。中学1年でテニスを始め、翌年の同大会Bクラスで優勝した。それから面白くなった。
「負けん気が強くてね。祖父から『勝った負けたではない。パートナーがミスしてもふてくされるな』と注意されたこともありました」。
だが、兄とダブルスを組むと、よくケンカした。「菅兄弟またケンカ」と新聞に書かれたこともあったが、法政二高1年の時、高校総体の団体戦に兄とともに出場し、優勝した。
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朝日生命テニス教室のジュニア達に指導
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思いがけずのめり込んだテニス。そのお陰で普通の人の何倍もの出会いがあったという。朝日生命テニス教室や協会の仕事を通して、全国いろいろな地域の人とも交流できた。大会のスポンサーを探すうえで、その人脈が生きているという。世界ランキングを取得できる女子のサーキットが毎年、国内で行なわれているが、これは宮城黎子さんの呼びかけを森さんらが中心となって実行に移したものだ。これらの大会が女子選手の世界への足がかりとなっている。
「国際的に活躍する選手を育てるためには、上ばかり見ていてはダメ。強化したいなら、最初のチャンスをつかむための大会を日本に増やさないと」。
04年12月末現在、WTA世界ランキングを持つ日本選手は62人にのぼる。これはアメリカ、ロシア、ドイツ、イタリア、フランスに次ぐ6番目の多さである。
【取材日2003年1月26日】東レPPO会場にて
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
プロフィール
森 清吉 (もり・せいきち)
- 1941(昭16)年2月27日生まれ
- 東京都出身。
- 財団法人 日本テニス協会・国体委員長
主な戦績
- 1958年全国高校総体シングルス優勝(法政二高)
- 全日本ジュニア18歳以下ダブルス優勝
- 1962年・全日本学生テニス選手権ダブルス準優勝(法政大学)
- 元デビスカップ代表選手
- 1975~81年日本デビスカップチーム監督