[1961 デ杯東洋ゾーン準決勝/フィリピン戦]
1971年に戦後初の日本人プロ選手となった石黒修さん。全日本選手権を単複各3度制し、デ杯やウィンブルドンで世界の強豪と戦ってきたプロテニス界のパイオニアである。プレーヤーとしての情熱は今も衰えることはなく、選手としてベテランの部に挑戦し続けている。インタビュー場所に指定されたのも、石黒さんが普段汗を流している田園テニスクラブだった。その石黒さんが思い出の試合に選んだのは1961年のデ杯東洋ゾーン準決勝、フィリピン戦の奇跡の逆転勝利だった。国を代表して戦う団体戦特有の心の動きが興味深い。
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勝利の瞬間
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1961年4月、デ杯東洋ゾーン準決勝。日本は東京・田園コロシアムで強豪フィリピンを迎え撃った。6年前に東洋ゾーンが新設されて以来、日本はフィリピンに1勝3敗、インドに0勝2敗と両国は大きな壁となっていた。鶴田安雄監督率いる日本チームはこの年、正月返上で合宿を行い、「打倒フィリピン」に燃えていた。
初日。すり鉢状の形をしたコロシアムには強風が舞っていた。エース対決となったシングルス第1試合は宮城淳さんがデイロにストレート負け。続く石黒さんも得意のグラウンドストロークが強風のため続かず、ホセに0-3で完敗した。「初日は1セットも奪えず惨敗。地元開催で有利なはずなのに、風の計算ができなかった。今年もだめかな、と思いましたよ」
暗いムードを破ったのは2日目のダブルスだった。初日に2-0とリードしたフィリピンはデイロを温存し、若手のホセ・ドンゴ組を起用。日本は宮城・長崎正雄組を配した。デ杯代表2年目の長崎さんは端から見ても緊張しているのが分かった。立ち上がりは極度のプレッシャーから動きが硬く、イージースマッシュを空振り。だが、この1球で肩の力が抜けた。力強いボレーで攻め続け、ストレート勝ちで日本に1勝をもたらした。
午後7時、石黒さんは宿泊していた旅館のテレビでダブルス勝利を伝えるニュースを見た。「日本は長崎の活躍で何とか一矢を報いて最終日を迎えることができた……」とヒーローを讃えている。
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田園コロシアムに入場する日本チーム/鶴田安雄監督と、石黒選手
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複雑な心境になった。団体戦なのだから、仲間の活躍はうれしいはず。だが、素直に喜べなかった。「年齢もランキングも僕の方が上。明日自分が負けて終わったらえらいことだ」と大きなプレッシャーを感じた。
最終日の第1試合、宮城さんはホセに苦戦を強いられた。2セットオールになり、2-3、2-4とじりじりと追い詰められていく。石黒さんは練習コートでウォームアップしていても落ち着かず、コロシアムを何度ものぞきに行った。結局、宮城さんは第5セットを6-4で制し、勝負は石黒さんにかかった。
襟に三色の縞の入ったセーターを着た石黒さんは、大股で階段を降りてコートに向かった。その途中、慶大庭球部の大先輩である小泉信三元塾長に「石黒、オイ、思い切ってやれ」と声をかけられた。だが、あまりにもナーバスになったせいで、まったく覚えていないという。ゲームが始まってからも無我夢中で周りは何も見えなかった。
デイロはドロップショットやロブが得意なベテラン選手。一方、当時24歳の石黒さんは海岸経験も少ない“駆け出し”だった。「デイロが百戦錬磨の横綱なら、僕はやっと幕内力士。それほどの差があった」。デ杯コーチの鵜原謙造さんには「技巧派のデイロを相手に粘ってもダメ。攻めまくるしか活路はない」とアドバイスされた。その戦略通りの展開となった。石黒さんがサーブとストロークで圧倒し、相手につけ入る隙を与えなかった。バックハンドのパスもさえていた。当時、バックハンドのトップスピンを打つ選手は日本にほとんどいなかったが、石黒さんは世界のトップだったロッド・レーバー選手のフォームを研究して、身につけていた。マッチポイントもバックハンドのクロスパスだった。6-1、6-4、6-4。石黒さんはうれしさのあまりラケットを放り投げ、ネットを飛び越えてデイロに駆け寄って握手した。
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首相官邸で当時の佐藤栄作首相から激励を受ける
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小泉元塾長は振り返ってこう記している。
<石黒の脚は軽るく、縦横に走り廻り、サーヴは続けさまに入り、正確にして力強いバックハンドのパッシングは、しばしばネット際のデイロを茫然たらしめた。石黒は最後まで勝敗のことを考えなかったのかも知れない。最後の一球が、ネット際のデイロのラケットの端を掠めて飛び過ぎ、満場総立ちの拍手が起こったときに、彼れははじめて自分の望外の勝ちを知ったかのように、私には見えた。(事実、「テニスゼミナール」の記事によると、決勝後石黒は、虚脱状態のようで、最後の一球は「どんなボールだった」と他人にきいていたという。)このような瞬間は、人の一生にそう幾度もあるものではない。多くの人は終にそういう瞬間を知らずに生を終えるのである>(慶應庭球100年より)
これを機に、石黒さんは飛躍を遂げた。同年、初出場のウィンブルドンで初戦を突破。同大会の前哨戦では当時ナンバー1のニール・フレイザーを破る大金星をあげた。さらに同年秋の全日本では念願の初優勝を果たした。「どのスポーツでもそうですが、ある時チャンスをつかむと自信を得てぐっと伸びる。僕はこのデ杯をきっかけに上昇気流に乗ったわけです」。
当時はまだ、コンピュータで管理された世界ランキング制度は確立されておらず、「日本代表」や「有名選手を破った」ことなどが出場権につながった。トーナメント主催者に実績などを書いた手紙を送って返事を待つ。実力に応じて宿泊費や交通費などのギャランティーが異なるので、大会レベルや条件面を考え合わせて出場大会を決めていた。石黒さんは海外遠征を始めて間もなかったにもかかわらず、フレイザーなど世界のトップ選手に勝った実績が評価され、有利な条件で規模の大きな大会に出場できた。
テニスを始めたのは甲南中学1年の時。2つ上に松岡修造さんの父で元デ杯代表の功さんがいた。当時は球足の遅いクレーコートが主流で、粘り強いグラウンドストローカーが多かった。
だが、長身の松岡さんはサーブ&ボレーで積極的に攻めるプレーヤーだった。「松岡さんには影響をものすごく受けた。練習姿を見ては僕もサーブ&ボレーをまねたりしました」。
全日本ジュニア、インターハイ、インカレ、全日本選手権など、数々のタイトルを手中に収め、日本のトップ選手になってからも研究熱心さは変わらなかった。ライバルの試合を見て大学ノートに長所や短所を書き込んだ。「試合に負けてうんざりしている時でも、観戦してメモを取っていました。テニスの持つゲーム性が楽しくて。激しい練習をしても嫌になったことは1度もありません。ゲームの楽しさや相手を倒さないと上にいけないところなど、テニスには何とも言えない魅力がある」。
その情熱は今も続いている。現在は65歳以上の部で活躍しており、プレーヤーとして「生涯現役」を貫いている。
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プロフィール
石黒 修 (いしぐろ・おさむ)
- 1936年8月生まれ
- 長崎県出身。
- 慶応義塾大学卒
- 175センチ、70キロ
- 戦後初の日本人プロ選手
主な戦績
- 全日本選手権単複各3回制覇。
- 1958、60~66年 デ杯代表。
- 65年 デ杯監督。