[1967 ユニバーシアード]
渡辺功さんは法政二高時代からデ杯選手を破り、「スーパー高校生」として注目されていた。父政治さんが日本初のプロテニスコーチで、東京ローンテニスクラブの敷地内に自宅があるという恵まれた環境で育った。早稲田大1年で全日本選手権の決勝に進出し、デ杯では選手、コーチとして活躍した。そんな渡辺さんが最も思い出に残る試合に選んだのが67年(昭和42年)のユニバーシアード東京大会でのシングルス金メダル獲得だった。
「1967年8月26日から9月2日まで、日本初開催となるユニバーシアードが東京で開かれた。渡辺さんはホーム開催の有利さと重圧を抱える中、日本チームのキャプテンを務めた。
監督は法政二高時代の恩師でもある松本武雄さん。渡辺さんは小浦武志さん、神和住純さん、黒松秀三郎さんの男子メンバー4人とともに合宿を重ねた。
「あまりの練習の厳しさに音をあげるメンバーをなだめたこともあったけど、皆、自分だけじゃなくて一丸となってプレーした」と話す。
そんな中、最も重圧を感じていたのが松本監督だった。大会直前の最終合宿では午前4時ごろ、「イサオー。俺の体を押さえてくれ」と叫ぶ監督に起こされたことがあった。
「監督は日本代表を引っ張る経験がなかったから極度に緊張したみたい。明け方まで2時間くらい、座っている監督の体を押さえました」。
“鬼のまっちゃん”と呼ばれ、厳しい指導で知られる松本監督が重圧に苦しむ姿を見ても、渡辺さんは動じることはなかった。
「僕はあまり神経質じゃなくてプレッシャーとか感じない。(神和住)純もまったく平気。『入賞したら六本木に飲みに連れて行ってやる』とメンバーを盛り立てました」。
ユニバーシアードは2年に1度開催され、参加資格は大学生と卒業後2年以内の28歳以下の選手。学生チャンピオンを決める大会だが、各国のデ杯選手ら強豪も出場していた。日本は57年のパリ大会から初参加。59年のトリノ大会で長崎・半那組がダブルスで優勝していたが、シングルスでは63年のポートアレグレ(ブラジル)大会で本井満さんが銅メダルを取ったのが唯一のメダル(67年当時)。渡辺さんは65年のブダペスト大会では3位決定戦でアレン・フォックス(米国)に敗れ、メダルを逃していた。
3大会目の東京大会はキャプテンという重責を担ったが、「全体のことを考えるので、逆に自分の試合に対しては無欲になれた」と語る。
日本選手は快進撃を続け、小浦さんがスペインのギスバート、神和住さんがドイツのヴァイマンとデ杯やウインブルドンで活躍する強豪を撃破。ベスト4を日本選手が占めた。
「ホームの強さっていうのはあったよね。観客の後押しや湿度の高い環境が有利に働いた」。
渡辺さんは準決勝で黒松さんを4-6、8-6、6-2の接戦で破ると、決勝では神和住さんに6-4、6-2、6-0で勝ち金メダルを獲得した。
「2人には負けたことがなかったから、準決勝も決勝も負ける気がしなかった。力のあるやつに対しては練習試合でもこてんぱんにやっつけた。たとえ練習でも1度負けると相手に自信を与えるからね」。
渡辺さんは小浦さんと組んだダブルスでも準優勝。同大会では男子選手4人全員がメダルを獲得する活躍を見せた。数多くの大会の中から、最も思い出に残る試合に選んだ理由について「皆が一丸となって戦って世界の頂点に立ったことがうれしかった」と語る。
渡辺さんは6歳からラケットを握り、プロコーチの父から英才教育を受けた。「子供を一流の選手に育てたい」と考えた父が、東京ローンテニスクラブの敷地内に家を建てたという。『巨人の星』の漫画を読んだ時、「自分をモデルにしているんじゃないか」と思ったほど熱心に練習していた。
大学時代は夜はろうそくを立てて1日8時間もコートに立った。試合に負けると相手の負け試合を見て、弱点を研究したり、度胸をつけるため夜中に墓地を歩いたりした。「巳年だからしつこいの(笑)。何かしていないと不安だから練習ばかりしていた」と振り返る。
ネットプレーが得意で、当たり出すと、ことごとくコースが読めたという。だが、好不調の波が激しく、大学1年で全日本の決勝に進んだが、同年のインカレは初戦敗退している。
当時、夢が3つあったという。一つ目は加茂公成さんや宮城淳さんのように飛行機のタラップから手を振って海外に旅立つこと。二つ目はテレビに出ること。いずれの夢もデ杯出場などで実現したが、三つ目のオープンカーでパレードすることは、個人競技では難しく、自分でオープンカーを買って街中を走ることで代わりとした。
選手時代の夢をすべてかなえた渡辺さんは、引退後は普及と育成に力を注いでいる。日本プロテニス協会で全国の有望なジュニアを発掘する「ジュニアスカウトキャラバン」の支援をするとともに、一般向けの講習会などでテニスの楽しさを伝えている。
「ラケット1本あればいろいろな人と会えてこんなに楽しい仕事はない。一生続けられるってすごくいいよ」。
軽妙な語り口に引き込まれ、すぐにラケットを握りたくなってしまった。
【取材日2002年12月24日】
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
プロフィール
渡辺 功 (わたなべ・いさお)
- 1941年生まれ
- 東京都港区出身
- 早稲田大卒
- 日本プロテニス協会理事長
主な戦績
- 61年全日本選手権単準優勝。
- 64、66、67、69年同複優勝。
- 64年インカレ単優勝。
- 67年ユニバーシアード単優勝。
- 64、65、67、68、70年デ杯代表。