[1955 日本初開催のデ杯]
加茂公成さんとともに一時代を築いた宮城淳さん。1955年、2人で成し遂げた日本初開催のデ杯アジアゾーン優勝と全米ダブルス制覇は大きな勲章だ。
「今でもデ杯に行くと血が騒ぐ」といい、50歳で母校の早大教授(02年3月定年)になってからは、デ杯にはほとんど足を運んだ。
定年後は競技者としても世界に挑戦している。国内のベテラン大会を始め、世界選手権でも活躍。「現役時代に世界チャンピオンになれなかったので、年をとってからチャンピオンに挑戦してやろうと思って」と目を輝かせた。
宮城さんは「その声援」を聞いた覚えはない。だが、強く印象に残っている。まるでその場面を目撃したかのようにーー。
1955年5月、日本初開催のデ杯は「けいれんからの逆転」というドラマチックな幕開けとなった。その年、新設されたデ杯アジアゾーン決勝で、日本はフィリピンと対戦。1万人収容の田園コロシアムは通路まで人が埋めつくす超満員となった。原田武一監督率いる日本チームは、宮城さんと加茂公成さんの布陣で臨む。第1試合は加茂対デイロ。加茂さんは相手の巧みなドロップショットとロブに振り回され、第4セットで両足にけいれんを起こした。ファイナルセット1-4。絶体絶命のピンチを迎えたが、加茂さんは足を引きずりながら、懸命に球を追い続けた。すると静けさの中、一人の男性が叫んだ。「加茂頑張れっ」。
宮城さんはその瞬間を見ていない。自分の試合を控え、別のコートでウォーミングアップをしていたはずだ。それでも、自分の試合以上に印象に残っているという。「逆転勝ちしたわけだし、大きく報道されましたからね」。大逆転のインパクトもさることながら、声援を送ることは当時はほとんどなかっただけに、脳裏に深く焼き付けられたようだ。
この調子で次もーー。加茂さんの勝利に沸く観客を背に、宮城さんの両肩に大きなプレッシャーがのしかかった。大事な勝負を前に、無意識のうちに気持ちが高ぶったのかもしれない。ウォームアップが始まっても、初めの1分くらいはボールがよく見えなかった。
田園コロシアムに続く入口は、宮城さんが立つと少しかがまなければならない程度の高さだった。外からの光が遮られ、内側は薄暗い。そこからコートに足を踏み入れると、明るさで目が眩んだ。「ああ困った。こんな大事な試合で目がよく見えないなんて……。どうしようと思いましたが、数分したらもとに戻ったのでホッとしました」。
それまでもアメリカの大観衆の前で試合をしたことが何度もあった。だが、緊張であがることは一度もなかった。しかし、この時は違った。「試合後に医者へ行ったら、『極度の興奮状態になると目が見えなくなることがある』って言われました。まあ、初めて1万人以上の日本人の前で試合をしたから興奮したんでしょう」。
相手のアンポンはベテラン選手。小柄だが、機械のように正確なショットを嫌なところに打ってきた。しかも足が速かった。宮城さんは第2、3セットを落としたが、ファイナルセット6-3で辛勝した。翌日のダブルスは敗退したが、最終日に加茂さんがアンポンを破り、日本初開催のデ杯を白星で飾った。
ホッとした、というのが一番の気持ちだった。「国を代表して戦っているので、その責任を果たせたという安堵感がありました。デ杯は世界のトップ選手が顔をそろえるし、国の威信をかけて戦う最も重要な大会でしたからね」。
その年の8月、アメリカで行なわれたデ杯インターゾーン準決勝は強豪オーストラリアに0-4で敗れた。だが、1週間後の全米選手権男子ダブルスに出場した加茂・宮城組は6試合を勝ち抜いて優勝した。2人の他に日本人男子で四大大会のタイトルを獲得したのは、1934年にウィンブルドン混合ダブルスで優勝した三木龍喜だけである。
日本初開催のデ杯アジアゾーン優勝と全米ダブルス制覇。2つの勲章を手にする3年前、宮城さんはアメリカで腕を磨いた。この経験が後に生きたという。
1952年7月、米シンシナティで開かれたデ杯アメリカゾーン1回戦。当時20歳の大学生だった宮城さんはアメリカ戦に出場し、全米チャンピオンのラーセンと第5セットまでもつれこむ接戦を演じた。負けはしたものの相当な自信になった。
デ杯チームの隈丸次郎さんと中野文照さんはともに社会人だったため、デ杯終了後に帰国したが、宮城さんは現地の知人に勧められ、アメリカに残って各地の試合に出ることにした。当時は今のように気軽に海外へ行ける時代ではない。国を代表するデ杯でもなければ難しかった。「せっかく来たのだからもっと試合をしたい」と思うのも当然だった。デ杯以降の滞在費は自己負担だったが、ほとんどが招待試合でホームステイをさせてもらえたため、お金はかからなかった。
デ杯で健闘し、手応えを感じてのサーキット挑戦。だが、なぜか毎週初戦負けだった。「強い人とやって負けるならいいんだけど、全然名も知らない人とやって負けちゃうんだ。試合見たり練習したりしながら、どうして負けたんだろうと考えて。でも次の試合に行くとまた1回戦負け。また練習をして、今度は大丈夫だと思って行くとまた負けちゃうわけ。これは才能ないのかなと思った」。その後、芝生コートの多い東部から西海岸へ移動し、ハードコートの試合に出場したが、初戦敗退が続いた。「これはもうテニスをやめた方がいいかな」と考えるほど落ち込んだ。それでも、ロサンゼルスの日系人宅にお世話になりながら、練習と試合に明け暮れた。
早慶戦のため帰国したが、何カ月も勝ち星をあげられず不安でいっぱいだった。「若手のホープと期待されて日本代表でデ杯に送り出され、デ杯でも強豪相手に接戦を演じた。それがその後、1回戦負けばかり。もう自信も何もあったもんじゃなくて。みっともない試合やったらどうしようとプレッシャーがあった」。
ところが、ふたを開けてみれば圧勝。自分は何もしないのに、相手がどんどん負けてくれる感じがしたという。早大庭球部の安部民雄部長と福田雅之助監督に「キミはうまくなった」と生まれて初めてほめられた。「僕が思っていたよりアメリカのテニス層が厚かったというのもありますが、何カ月も負け続け、自分で考えて練習しているうちに実力がついたんだなあと思いました」。
それから半世紀たった今も情熱はまったく薄れていない。リタイアしたらもう一度テニスを楽しみたいという気持ちがあったという。「テニスは競技スポーツとしても素晴らしいが、生涯スポーツとしても楽しめる。デ杯みたいなプレッシャーはないけど、試合は緊張感があって楽しいじゃない。勝ち負けは別にして、相手も一生懸命、こちらも一生懸命。年をとってからも世界チャンピオンに挑戦したいなあと思って」。
姉の黎子さん同様、心の底からテニスを愛し、情熱を傾ける姿がまぶしかった。
【取材日2002年12月17日】東京都・世田谷区のご自宅にて
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プロフィール
宮城 淳(みやぎ・あつし)
- 1931(昭6)年10月19日生まれ
- 東京都太田区出身。
- 早稲田大学卒
- 財団法人 日本テニス協会 顧問
主な戦績
- 1954,55,57,60年 全日本選手権単優勝
- 1954,55,57,60年 全日本選手権複優勝
- 1962年 全日本選手権混合優勝
- 1952~57,59,61~63年 デビスカップ出場/単11勝13敗、複6勝9敗
- 1955年 全米選手権ダブルス優勝(ペア/加茂公成)
- 1962,63年デビスカップ代表監督