[1958 全日本テニス選手権]
当時の写真を見ると、黒縁めがねで理知的な雰囲気が漂っている。待ち合わせ場所に現れた市山哲さんは、想像していた通りの穏やかな笑みを絶やさない紳士だった。最も思い出に残る試合は1958年(昭和33年)の全日本でアメリカのオルメドに惜敗した試合。世界のトップ選手に健闘したことが自信となり、その後の飛躍につながったという。
「海外のこれだけ名のある選手とやるのは初めて。対戦できるなんて夢のようで、とにかく捨て身の無我夢中でぶつかりました」。
1958年(昭和33年)、大阪うつぼ公園コート。神戸大3年の市山さんは、全日本選手権の準々決勝でアメリカのデ杯選手、アレックス・オルメドと対戦した。オルメドはアメリカのデ杯選手の中でも中心的存在で、この翌年にはウインブルドンで優勝している。
有名選手をネットの向こうに回し、170センチ、58キロと小柄な市山さんは得意のパッシングショットで対抗した。うつぼ公園のサーフェースは球足の遅いアンツーカー。オルメドはなかなかエースを奪えず、打ち急いでいるようだった。そこにつけ込み、第1セットは市山さんが6-3で先取した。
「わりあい力が入らずにプレーできました。自分でもどうやって返球したかよく覚えていませんが、そんなにエースは取られませんでした。決まるはずの球が返ってくるのでオルメドはいらいらしているようでした」。
第2セットも3-1とリードし、観客は大いに盛り上がった。だが、相手はやはり世界の一流選手。スマッシュ、ボレーと積極的な攻めを続けられ6-4、6-1で奪われた。
「サーブは日本選手とは全然違う威力があったし、ネットプレーもうまかった。よく競り合えたと思いますが、セットオールに持ち込むポイントが2つあったんですよね」と残念がる。
第4セットは6-5からセットポイントを2本握ったが、それを逃して6-8で惜敗した。
「ここまでできたというのが大きな自信になりました」と話す。翌59年の全日本ではフィリピンのデ杯選手、ミゲル・ドゥンゴに敗れてベスト16に終わったが、同大会に出場したアメリカのマッケーとフランクスを招いて行われた11月の日米庭球大会ではフランクスを破る大金星を挙げた。同年の全日本ランキングでは宮城淳さん、長崎正雄さん、石黒修さんに続いて4位をマークした。
さらに、60年1月のデ杯選手選考最終予選会では高い勝率を残し、石黒さん、古田壌さんとともにデ杯代表に選ばれた。
「まさかデ杯選手になれるとは思っていませんでした。『絶対なってやる』と考えていたわけではなく、必死に戦っていたら結果がついてきたという感じです」と振り返る。
初めてラケットを握ったのは進学校として有名な灘中に進んでから。だが、その前から医師だった父親が甲子園クラブでプレーするのを間近に見ていた。相手のくせを研究し、巧みな配球で自分のペースに持ち込むテニスは「理詰めのプレー」と呼ばれた。そんな市山さんのテニスの基礎を作ったのは大阪・池田クラブの清水弥次郎コーチの指導によるという。清水コーチは50年の全日本ダブルスチャンピオンで、実戦的な指導に定評があった。
灘高1年の時、池田クラブに通うにようになったが、そこには後のデ杯選手、松岡功さん(修造さんの父)や小林功さんが練習に来ていた。石黒さんもたまに顔を見せた。「彼らのプレーを見ることで勉強になりました」と話す。市山さんは粘り強さも武器だったが、登校前や練習後によく走ったという。「今と違ってラリーが長く続くから、とにかく体力をつけないともたなかった」と話す。
デ杯では韓国戦に出場し、勝ち星を挙げる。旭化成に就職してからはウイークエンドプレーヤーとしてテニスを続け、駐在先のイギリスとベルギーでも現地の仲間と楽しんだという。「テニスはスポーツとしての魅力もありますが、国際交流できるメリットもある。一緒にプレーすると、すぐ仲良くなれて家族ぐるみの付き合いができた」と振り返る。
退職後は関西テニス協会の役員として、指導者や選手の育成に力を注いでいる。
【取材日2003年2月17日】
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プロフィール
市山 哲 (いちやま・あきら)
主な戦績
- 灘高3年でインターハイ優勝。
- 神戸大4年でユニバーシアード・トリノ大会出場。
- 60年デ杯代表。