上毛新聞スクラップ
山河遥か――上州・先人の軌跡 第四部「清水善造・佐藤次郎」
2008年5月15日~28日 連載10回、番外編
日本テニスの黎明期を語る上で欠かすことができない2人のレジェンド、清水善造(1891年3月25日~1977年4月12日、群馬県高崎市出身)と佐藤次郎(1908年1月5日~1934年4月5日、群馬県渋川市出身)。同郷の先人が築いた歴史を振り返る『上毛新聞』の連載企画「山河遥か――上州・先人の軌跡」第四部として、2008年5月15日から28日まで10回に渡って2人の物語が掲載された。掲載時から好評を博したこの企画を、上毛新聞の好意を得てこの場に転載いたします。
構成:テニスミュージアム委員会
1.テニスの聖地で見せた“武士道”とは
(大正9)年、テニスの聖地・ウィンブルドンに初めて立った日本人、清水善造。彼は周りの予想を覆す快進撃を見せ、前年優勝者への挑戦権を懸けたビル・チルデン(アメリカ)との決勝へたどり着いた。そこで清水が放ち、のちに“武士道”を象徴することとなった伝説の一打とは……
2.伝説の一打を生んだフェアプレー精神
清水は世界中から「フェアプレーの男」と尊敬されていたという。試合中に相手がどんなことをしても心を乱すことなくプレーした。だからこそ“緩やかなボール”の逸話が生まれ、語り継がれることとなった。しかし、清水の口からその真相が語られることはなかった……
3.清水善造の“原点”を作った少年時代
国際舞台で世界の強豪と互角以上の戦いを繰り広げた清水のテニスは、その強靭な体力と独創性の高いフォアハンドストロークに支えられたものだった。そして、そのプレースタイルの基礎は、当時、日本の農村地帯では決して珍しくない生活環境の中で育まれたものだったという……
4.草刈りテニスを進化させた“壁打ち”
少年時代、「草刈り」と「長距離通学」で培った清水のテニスプレーヤーとしての素養は、講堂の壁に向かって打ち続けた“壁打ち”で完成することになる。地道な練習を繰り返すことで開花させた才能の前に、ウィンブルドンへの道が切り開かれていた……
5.国際経験を生かした後進育成、テニスの普及
ウィンブルドンやデビスカップに出場し、豊富な国際経験を積んだ清水は、引退後に後進の育成に力を入れた。その舞台となったのは清水が家族と共に暮らした兵庫だった
6.佐藤次郎を苦しめたデ杯の重圧
ウィンブルドンでシングルス四強、ダブルス準優勝した佐藤次郎。世界ランク3位は今も破られていない日本人最高位だ。しかし、デビスカップに向かう航海中、彼は26歳の若さで死を選ぶこととなる
7.佐藤次郎を変えたバックハンド
強烈なフォアハンドを武器に全日本選手権を勝ち上がった佐藤だったが、決勝で惨敗。軟式流の“バックハンド”が弱点と見抜かれたのだ。この苦い経験から、佐藤は脱自己流を誓い、世界と戦うための武器を手に入れるべく猛特訓を開始する
8.世界に愛される佐藤次郎の人格
海外でも実力を認められた佐藤は、1931(昭和6)年以降、拠点を海外に置きフレンチープン、ウィンブルドンなどで活躍し、各地を転戦するようになる。12大会連続優勝という記録も作り、一躍人気者となった佐藤だが、彼が多くのファンに愛された理由はテニスの強さだけではなかった
9.佐藤次郎の偉業が後進を育てる
佐藤の死後、その偉業をたたえ地元群馬県の大会に彼の名が冠されることに。フィリピンの大会で佐藤が獲得した優勝カップが、遺族から寄贈された。佐藤の偉業は、そうして風化されることなく地元の後継者によって伝えられていった
10.光り輝く清水善造の“四コン”
清水がテニスの普及に力を注ぐ中で、技術の習得や勝利すること以上に重視したのが精神修養。コンセントレーション(精神集中)、コントロール(節制)、コンビネーション(協力)、コンフィデンス(自信)の重要性を説く「四コン」精神は、現在のテニスプレーヤーにも引き継がれている
番外編.実力兼ね備えたフェアプレー
世界のトップで活躍した群馬県出身のテニスプレーヤー清水善造と佐藤次郎。彼らは実力だけでなく、その人格全てを世界から高く評価された偉大な先人だった