[1938 全日本選手権優勝]
昭和13年、第15回全日本で念願のタイトルを獲得。
木全さんが経営するテニス専門店「ユタカスポーツ」(福岡県北九州市)を訪ねると、開店前にもかかわらず、背伸びをしながらシャッターを開けてくれた。
身長146センチ、体重38キロと小柄だが、「これでも昔は太っていて、『転がった方が速い』なんてからかわれたものです」と笑う。テニスショップを経営する傍ら、50歳過ぎまで現役でプレーし、半世紀以上に渡って選手育成に力を注いできた。02年11月の米寿の祝いには、教え子の福井烈さんら約140人が集まり、親睦試合も開かれた。長年テニスに情熱を注いできた木全さんの「思い出の試合」は、初優勝した1938年の全日本。
「テニスは年齢に関係なく楽しめる」と日焼けした顔で語ってくださった。
1938年(昭和13年)11月5日。第15回大会で、念願の全日本初タイトルを獲得した。1932年に初出場で4強入りして以来、その翌年を除いて毎年挑戦してきた。新聞にはいつも「優勝候補の筆頭」と書かれていながら、なかなか優勝できなかった。ホームコートの甲子園クラブで行われた第13回大会では、当時21歳の木全さんより一回り年上で、第5回大会覇者の戸田定代さんに1-6、4-6のストレート負け。「戸田さんは自分よりずっと年寄りなので(笑)、勝てると思ったけど、歯が立たなかった」と振り返る。
その2年後。2度目の決勝進出で、当時15歳の新鋭、加茂(中牟田)純子さんと顔を合わせる。加茂さんは、ウィンブルドンに日本女子として初出場した幸子さん、ともにデ杯選手の礼仁さん、公成さんの1番上の姉である。決勝の舞台は加茂さんのホームコート、田園クラブのメインコートだった。
第1セットは加茂さんのフォアの強打に押され、2-6で失う。第2セットも1-3とリードされた。だが、左右に振り回されながらも懸命に拾って6-3で取り返す。どこに打っても壁のように返球してくる木全さんを相手に、加茂さんはより厳しいコースを狙い、少しずつミスを重ねていった。「彼女はフォアが強かったけど、私の方が足が速かった。だから、足でかせぐしかないと思って走り回った」。加茂さんはとりわけまわり込んで打つフォアが得意だった。だがその分、右側があくので、そこを攻めた。第3セットは6-2。足を生かした粘り勝ちだった。
翌日の朝日新聞には次のような戦評が載った。《女子シングルス決勝では加茂嬢が木全嬢を向ふに廻してフォアーの強打に物言はせて第一セットを6-2で先取したが、老巧な木全嬢は加茂嬢の調子を巧みに乱して遂に第二、第三セットを奪って優勝した》
その翌年、勤務先の日本生命の後輩、沢田住さんと組んでダブルスも制した。
木全さんは中学までは陸上や卓球をやっていたという。だが、「ちびっ子だったから、いつまでたっても大会に出してもらえず、荷物運びばかりだった」と笑う。進学した桜之宮高女には硬式庭球部があった。コーチはいなかったが、正月以外はほとんど毎日練習し、4年生の夏には全国高等女学校庭球大会(インターハイの前身)のシングルスで優勝した。
卒業後は日本生命に就職。1934年、入社3年目に関西選手権のシングルスで優勝した。それを機に大阪瓦斯社長で甲子園クラブ代表の片岡直方氏に入会を勧められた。当時、木全さんの月給は25円。甲子園クラブの入会金はその約4倍もした。とても無理だと思ったが、特別に入会金免除で入れてもらえた。
今は閉鎖されたが、当時、甲子園クラブには100面のテニスコートがあった。クラブに行くと、「今日はどこの審判をしようかな」とコートを見回した。そして、後に全日本の混合ダブルスを8回制した鵜原謙造さんら、上手な人を見つけては「審判させてほしい」と頼んだ。審判や球拾いをすると、試合後に打ってくれた。「今の人は自分の試合が終わるとさっさと帰ってしまうでしょう。せっかくうまい人のプレーを見られるのにもったいない」。上級者のプレーを注意深く見ることと、実際に打ち合うことで腕を磨いていった。その努力が全日本優勝に結びついた。
結婚後、福岡の門司に移り住む。そこで、テニス専門店「ユタカスポーツ」を開店。自らも創設に関わった門司ローンテニスクラブでは子供たちにテニスを教えた。その一期生が全日本のシングルスを7回制した福井烈さんである。「ちょっとほめてやるのがうちの教育方針」だという。それには理由がある。「現役時代、自分ではバックが苦手だと思っていたが、ある時『バックのうまい木全』と新聞に出た。それからはバックがちっとも怖くなくなった」。
テニス歴も70年余り。ラケットを握る機会は減ったというが、教え子たちがボランティアでテニス教室に顔を出してくれる。今ではそんな門下生たちの活躍が何よりの楽しみ。インタビューの最中も、福井烈さんの記事が掲載された雑誌を開き、「ツヨシちゃんは昔から練習熱心だったのよ」とうれしそうに思い出を語ってくださった。
【取材日2003年2月13日】
ご自身が経営するテニス専門店「ユタカスポーツ」(福岡県北九州市)にて
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
プロフィール
木全 豊子(きまた・とよこ)
- 1915年9月6日生まれ。
- 大阪市出身。
- 大阪市立桜之宮高等女学校(現・桜之宮高校)卒
- 福岡・門司でテニス専門店を経営。門司ローンテニスクラブで子供テニス教室を開き、半世紀以上に渡って普及活動に尽力してきた。
- 教え子に福井烈さん、植田実さん、二本松一さんらがいる。
主な戦績
- 1938年全日本選手権単優勝
- 1939年同複優勝。