【第1回】デ杯日本代表を目指して
私は甲南中(兵庫)からテニスを始めました。当時は小学生からテニスを始めるのは非常にまれで、中学でもテニス部があったのはほとんど私立中学でした。兵庫県中学校テニス大会などは誰でも出られた感じでしたが、初めて出たその大会で単複とも1回戦で1学年上の選手に0-6で負けたのを覚えています。今でもその方とお目にかかると、「あの時はよくぞ可愛がってくれましたね」と恨み言を交えながら話に花を咲かせます。
その頃から目標を聞かれたら即座に「デ杯選手」と答えていました。錦織圭選手が13歳でアメリカに行って、「目標は世界のトップ10に入り、グランドスラムで優勝すること」と答えていたのと比べると天と地ほどの差があります。目指すテニスの世界が全く違っていましたね。しかし甲南中で入部した同級生でのちにライバルになる5、6人の仲間内では、「この中で誰が最初にデ杯選手になるか」っていうのを夢物語みたいに話していました。私は中学ではその5、6人の中では最後尾に位置するような選手でした。
甲南高(兵庫)に進み、早生まれの私は高校1年で全日本ジュニア幼年の部(15歳以下)でダブルスに優勝しました。これが初めての全日本のタイトルです。また、2年先輩の藤井道雄さんたちが高校総体の団体で優勝して、私が高校3年の時に3連覇を達成しました。その頃からだんだん目標の世界が近づいてきたなっていう感じはあったのですが、まだまだ、海外に活躍の場を求めるような気持ちはありませんでした。まだ戦後10数年で、外国人に対するコンプレックスのようなものも強く、外国人は何でも強いという印象はぬぐい去れずに過ごしていました。ましてウィンブルドンとかグランドスラム(四大大会)は、はるか遠くの世界だと思っていました。でもテニスには真剣に打ち込んでいました。毎日強いられて練習していたっていう感じもあるのですが、テニスはずっと続けていました。
甲南大1年の時にマイアミ(米国)のオレンジボウルに行きました。大学3年では、宮城淳さん、石黒修さん、藤井さん、宮城黎子さん、福井昭子さんらとアジア大会でインドネシアに行き、団体と福井さんと組んだ混合ダブルスで金メダルを取りました。大学4年の時にはユニバーシアード(現・ワールドユニバーシティゲームズ)の代表に選ばれてブラジル遠征というのもあって、海外への扉が徐々に開かれました。さらに大学4年の時には目標のデ杯選手に選ばれたので、そこから先は次のステップに向けての歩みとなりました。それは打倒インド、打倒フィリピンという目標でした。
私がグランドスラムに出たのはすべてデ杯のためでした。当時はランキングポイントもありませんし、賞金もない時代ですから、グランドスラムに出ると言っても他の大会とあまり感覚的な差はありませんでした。ただ修養の場だった。私のテニスを振り返ってみると本当にデ杯中心にやっていて、デ杯への思い入れは人一倍強かったですね。デ杯という大きな幹にいろんな枝がくっついてきたという感じです。デ杯でインドへ行った時には芝のコートでやらなきゃいけないから、当時は芝だったオーストラリアに行き、ウィンブルドンにも行きました。全米オープンは当時芝だったけど、欧州からアメリカに飛ぶのは遠いし、お金もかかるから行かなかった。フレンチ(全仏)はクレーで得意っていうか好きだったから行っていました。5~6週間にわたるインドツアーにも2度参加しました。すべてはデ杯でインドに勝つという目標のためです。ですからインドについては結構知識はありますし、親しみも感じています。選手としてデ杯でプレーして、それから監督をやり、その後も役員として何度も海外のデ杯を見に行ったので、デ杯と聞くと今でも胸が騒ぎます。
【第2回】兵庫・甲南中でテニス部に入部
兵庫県西宮市の甲子園球場の近くで生まれました。誕生日は1942年1月19日です。戦争のために生まれてすぐ大阪市の天下茶屋の方に疎開していたんですけども、その辺の覚えがほとんどありません。終戦で兵庫県の尼崎に移って塚口小に入学しました。尼崎は父の会社の社宅です。そこで1年を過ごして、同じ県内の芦屋へ引っ越しました。
芦屋の山手小ではデ杯選手になった河盛純造が同級生でした。彼は運動能力が高くて野球が上手だった。私は小学生ではスポーツは何もやってないです。学校が家のすぐそばで、ちょっと坂道を登ったところが小学校だったので、帰りに寄り道して遊ぶなんてこともなく、家にすぐ帰って犬と遊んでいましたね。
そのころ父親と13歳年上の兄が「布井クラブ」というテニスクラブに週末は通っていたので、それについて行ってボール遊びみたいなことをしていました。父は学生時代にバレーボールをしていて、極東オリンピックの代表でした。兄は灘高(兵庫)、神戸大とテニス部でした。布井クラブではそこの村上さんというコーチにちょっとかじる程度に教わったのかな。小学6年の最後のころ、ある日突然にいいボールが打てるようになって、ほめられてそれでテニスやろうかなっていう気になった感じです。
甲南中(兵庫)に入って、河盛と一緒にテニス部を見に行ったら、松岡修造君のお父さんで当時、甲南大の学生だった松岡功さんなんかが練習していました。「いや、すごいな」なんて言いながら見ていて、それじゃあテニス部に入ろうとなった。その時の甲南高のキャプテンが石黒修さんでした。いい巡り合わせだったなと思いますね。
<甲南中のテニス部は入学した約120人のうち80人が入部希望する人気クラブだった。新入生はボール拾いとランニング、コート整備に明け暮れ、1週間すると新入部員は半減、さらに1カ月でその半分に減り、最終的には残ったのは10数人だったと、河盛は日本テニス協会の「思い出に残るあの試合」で当時を回想している>
甲南のテニス部は中学と高校で 60名ぐらい部員がいたんですけども、2面しかコートがなかった。それで1年生は練習といっても寒い中でボール拾いばっかりさせられて、最後の10分ぐらいを上級生に打ってもらうという部活動でした。でもそれをつまらないとは思わなかったですね。新入生の中でも小学校の時からテニスをやっていた小林功(後にデ杯選手)と吉田泰忠、松本鉄一がうまかった。その3人がちょっと飛び抜けていて、あとは中学から始めたものばっかりで、かなり差はありました。
松本の家にはアンツーカーのコートがあったので、部活がなかった土、日にはうまいメンバーで練習しようということなり、松本家に6人が集まって練習をやっていました。私もそこへ入れてもらったのが良かったのかなと思います。松本の家に朝10時ぐらいに行って、昼休みをはさんで午後の3時か4時ぐらいまでやった。コーチも誰もいないんですよ。ほんとに自分たちだけで遊んでふざけながら練習をしていた。のびのびやったから嫌にはならなかったですね。松本家で毎週やったのがよくて、松本とは高校3年の時の高校総体シングルスで決勝を戦い、大学に入ってからは甲南大と慶応大に別れてお互いがキャプテンとして大学王座を争うことになる。まあ、因縁の対決みたいなものの始まりがそこにありましたね。
【第3回】甲南高1年で全日本ジュニア・幼年ダブルスで優勝
甲南中(兵庫)1年で、グリップの握り方やテニスの基本を、高校の主将だった石黒修さんに教わりました。石黒さんが卒業して慶応大に進むと、デ杯代表になる2年先輩の藤井道雄さんとかが面倒を見てくれるようになりました。テニス部は高校生中心の練習で、中学の練習はあまり厳しいものではなかった。そのころ、松本家のコートに行かないときは、芦屋クラブに親父たちが入っていたので、そこでやっていました。でも中学の頃は全然ダメで、松本家で一緒に練習した6人の中で5番手、6番手ぐらいでした。
また中学の後半には、同じ地域に住んでいた先輩でインカレダブルスに優勝する高石勝さんの音頭で、2年先輩の野々村俊雄さんと3人の早朝ランニングを始めました。ものすごくきつい坂道なんですけど、それを毎日往復30分走った。2年間ほど続いたでしょうか。それが私の「フォアに回り込んでの逆クロス」というテニスの土台になったかなと思います。
<甲南高1年で渡邊は全日本ジュニア・幼年(15歳以下)ダブルスで同級生の吉田泰忠と組んで優勝、シングルスでは決勝で吉田に敗れたものの準優勝と好成績を残した。高校2年で近畿高校選手権に優勝、全国高校総体団体でも主力として連覇に貢献。高校3年では高校総体の団体3連覇を達成すると男子シングルス決勝に進み同級生の松本鉄一に敗れたものの準優勝という好成績を残した>
幼年は15歳以下でしたが、私は早生まれだったので高校1年で出場できた。その年代の1年っていうのは大きくて、中学3年と高校1年ではやっぱりテニスが違った。それで、吉田と組んで全日本幼年ダブルスで優勝して、その辺りからですかね、上昇気流に乗り始めたのは。その頃の兵庫には松本と吉田が、大阪には後のデ杯選手、本井満(八尾高)がいて、今から思えばそうそうたるメンバーが同級生でそろっていた。その宿敵に勝ったことが自信になって、優勝も増えたんだと思います。
そのころの甲南高は全国でも強かった。藤井道雄さんのときに初めて高校総体団体で優勝すると、藤井さんと私のあい間に静敬太郎さんの学年もあるんですけれど、この年代も勝って、我々の時には自信満々で勝ったみたいな感じの3連覇でした。そのころの3連覇はなかなかまれなものでした。
【第4回】テニス漬けになった甲南大時代
大学は甲南大に進学しました。東京へ1人で行くなんて頭をよぎりもしなかったですね。中学、高校と一緒だったメンバーでは、松本鉄一と吉田泰忠が慶応大に進んだ。私と小林功、河盛純造は甲南大に進んで、その後、デ杯選手になった。松本はものすごくいいサーブを持っていたのに、慶応に行ってからそのサーブがおかしくなってフォームがガタガタになったんです。甲南に残っていたらものすごい選手になっていたと思いますね。吉田は交通事故でテニスが1年間ぐらいできなくなってやめてしまった。東京に行った2人はデ杯選手になれなかった。甲南は特別な指導者はいなかったけれども、それが幸いして個性が延ばされたのだと思います。
大学は「甲南クラブ」というプライベートクラブのコートを借りていました。土、日はクラブの会員のためにコートを整備するという約束で、平日を借りていた。大学から歩いて15分くらいのところでした。そこから授業に通って、帰ってきては練習でしたね。コートは4面ありましたが、1面は女子のコートだったので 我々は3面で思う存分にできた。同期は12、13人いました。他の高校でテニスをやっていた選手も一緒にテニス部に入ったけれど、もう甲南高のレベルの方が圧倒的に高かった。
大学でも1年生はやっぱりコート整備です。朝8時ぐらいにはクラブに行って1時間コート整備して、9時からの練習に間に合わせる。練習は日没までずっとやるということで、大学から振り回しだとか厳しい練習が始まりましたね。さらに朝も走っていたので大学ではテニス漬けになりました。
【第5回】フロリダで開催されるジュニア大会「オレンジボウル」へ
<早生まれの渡邊は1960年に甲南大1年で全日本ジュニア・少年(18歳以下)に優勝した。少年の部優勝には米国・フロリダで開催されるオレンジボウル派遣という「副賞」がついてきた。オレンジボウルには前年の59年には松本鉄一(甲南高)と菅清吉(法大)が派遣されていて、渡辺が2年目の米国派遣だった>
飛行機なんて初めてなので、慣れるためにと親父と出発の前日に東京まで飛行機で行きました。アメリカの生活にも慣れておけとホテルに泊まって、トイレやお風呂の使い方を教えてもらいました。風呂のカーテンはバスタブの中に入れて、トイレもこうやって使ってという感じです。遠征先では個人のお宅に泊めてもらう「ホームステイ」なので、向こうのご家庭に迷惑が掛からないようにと心配してくれたのだと思います。それほど西洋の生活に知識が薄い時代でした。
航空券を渡されて慶応高(神奈川)の田中久雄と2人で行って来いって放り出されました。飛行機に乗った途端、隣のアメリカ人のおばさんに話しかけられました。行く前にひと月ぐらい英会話教室へ行ったものの、一方的に喋りまくるおばさんだったので、ハワイに着くまでの間に疲れ切ったことを思い出します。
フロリダではブライアン・ゴッドフリート(シングルス最高位3位、ダブルス2位)の実家にホームステイした。彼がまだ8歳くらいの時です。そこからフラミンゴパークの会場に送り迎えしてもらった。ジョン・ニューカム(豪州)とかアーサー・アッシュ(米国)という選手が一緒にオレンジボウルに出ていたが、そんなに差があるとは思わなかった。でもベスト16(4回戦)で負けたのかな。その時、エディ・ハーという名物おじちゃんが我々のことを気に入ってくれて、「キーウエストの大会へ行こう」と誘ってくれて、飛行機で行って、それから車で案内してくれたりもした。結局は2か月近くいたんですね、向こうに。遠征の期間は決まってなかった。お金もほとんど持っていなくて、全部向こうが出してくれる旅行でした。
帰りは大変で、マイアミから飛行機でダラスへ行ったら、そこからの乗り継ぎ便が大雪のため飛ばなくなった。そこからどうやって帰ったらいいか航空会社に相談したら、ロサンゼルスまで行かないと日本行きに乗れない。ホテルは航空会社が用意するから、とりあえずホテルに泊まれと言われて、田中と2人で1つのシングルベッドで寝たような記憶があるんです。次の日にロスに行くと、日本航空の東京行きがなくて、24時間ぐらい空港のロビーで過ごしてやっとの思いで帰ってきました。
【第6回】甲南大時代の思い出
<甲南大に進んだ渡邊は着実に実力を伸ばし、好成績を残していった>
大学時代の一番の思い出は、2年生の時に大阪毎日選手権(1961年5月)で古田譲(日本生命)さんに勝って優勝したことですね。古田さんは60年のデ杯韓国戦に石黒修(三菱電機)さんとともにシングルスに出場した人です。大学ではデ杯代表になることが目標でしたから、デ杯代表に勝っての優勝はすごくうれしかった。
大学時代のライバルには、本井満(関西学院大)、渡辺功(早大)がいて、同じ大学の小林功もいた。その中で本井と渡辺功、私が三つ巴でした。渡辺功には私はどうも分が悪くて、いつもかき乱されては負ける。本井は渡辺功に強くて、でも本井と私はいつも激戦でどっちが勝つかわからない。そんな感じでした。甲南大のチームとしては大学王座を取るという目標があり、みんなと一緒に王座、王座って言っていました。
<当時の大学王座決定試合は、関東と関西のリーグ戦優勝校が王座を争うというものだった。渡邊の大学時代、関西は関西学院大が62年まで10連覇する「黄金時代」で、甲南大は大学王座決定試合に進んだことがなかった>
大学王座を取るためにはまず関西リーグで優勝しないといけない。大学4年の時は関西学院大に本井満と小浦猛志がいて、こっちは小林功、河盛純造と私の3人がいました。関西リーグで関学に勝ったことがなかったので、4年の時にはダブルスで奇策を講じたんです。私と小林が正規のペアだったんですがそれを崩した。私が3年生の野々村と組んで負けるはずのポイントというつもりでダブルスのナンバー1に出た。相手は本井と小浦ですから、実力的には向こうの方が圧倒的に上です。それが勝ってしまって、ダブルスで3-0としたんです。シングルスのナンバー1、2の私、小林と、ナンバー5の河盛が4年生で、あとは皆下級生でしたが、シングルスは4年生が全部負けてしまった。でも下級生が2ポイントを取ってくれた。それで初めて関学に勝って大学王座決定試合に進んだので、下級生には頭が上がりませんでした。
【第7回】大学テニスの頂点、大学王座を取る
大学王座決定試合の相手は慶応大でした。相手のキャプテンは甲南中、甲南高と一緒だった松本鉄一というめぐり合わせだったから、みんな彼だけには負けたくないという意識を持ってやりました。1日目のダブルスは2勝1敗でリードした。2日目のシングルスはナンバー4~6で3連敗して後がない状況になったんですが、今度は関西リーグとは違って今度は4年生が発奮、ナンバー3の小林が2セットダウンから逆転勝ちした。ナンバー6の試合が7時間もかかり、ナンバー1の私の試合と河盛対松本というナンバー2の2試合が試合途中で日没順延になりました。
私の試合は2セットを先取して第3セットも2-0からの再開でしたからすぐに終わって4勝4敗となり、河盛と松本の試合に勝敗がかかりました。この試合は大変な試合でした。優勢のはずの河盛が緩いボールを使う松本に翻弄(ほんろう)されたんです。松本は高校時代すごいサーブを打っていて、高校総体に優勝して鳴り物入りで慶応に入ったんですが 、サーブがイップス気味になって入らなくなった。それでも試合巧者ですから緩いボールを使って頑張った。「さすが鉄一だな」とこっちも感心していたんです。それでも再試合となった3日目は対策を練って、緩いサーブをレシーブでたたく練習を朝早くにやったんです。それが功を奏して河盛がセットカウント1-2から逆転勝利を収めた。初出場で初王座です。
大学王座は、私の兄が1952年に神戸大で取ってるんです。そして私が63年。それから私の息子が早稲田大で91年から93年まで3回王座を取った時のメンバーで、最後に娘が青山学院大で94年に勝っている。家族でこれだけ王座を取ったというのはちょっとした自慢です。
<1963年の大学王座を取った渡邊は、1週後に始まった全日本学生選手権でもシングルスで初優勝、小林功と組んだダブルスも制した>
インカレで単複をとるというのは目標にはなかった。やっていたら勝ったという感じです。シングルス決勝で苦手の渡辺功(早大)に勝ったっていうのが大きいところでした。功はその頃有名でしたからね。松本が高校総体で単、複、団体と3つ取って3冠王って言われました。高校の時は同じ期間に全部やるから3冠になりますけど、大学は王座とインカレの時期が違ったのでそういうふうには言われなかったんですけど、自分の心の中ではしてやったりと思っていました。
【第8回】デビスカップ日本代表チーム入り
<渡邊が甲南大の学生だった当時、デ杯代表選考には選考試合方式が導入されていた。新人発掘を狙って関東と関西でそれぞれ第1次選考会を実施。その後に第2次選考会、最終選考会を行い、選考会で決まった選手と協会推薦の選手が代表候補となる――というものだ。渡邊は大学1年の時は関西地区の第1次選考会で敗れたものの、大学2年からは最終選考会に進んでいる>
大阪の靱(うつぼ)でものすごく暑い中、午前に5セットマッチ、午後も5セットマッチと1日2試合のリーグ戦(第2次選考会)を延々とやった覚えがあります。体力をどうやって持たすかっていうのは非常に大きかった。私とか渡辺功(早大)、本井満(関西学院大)なんかは必死だったと思うんですが、あまり記憶がないんですよ。でも変なことは覚えてます。(最終選考会が)雨で中断した時に、石黒修(三菱電機)さんがストーブでガットを乾かそうと火に近づけたら、ガットが切れてしまった。石黒さんのそういう第一人者らしくない失敗はいっぱい見てきています。石黒さんは人間味のある人だっていうような感じで見ていました。宮城淳(ゼネラル物産)さんはもう神格化されていましたね。話をするのも怖かった。石黒さんはお兄ちゃんという感じで、なんでもよく教えてくれました。
<大学3年だった62年、8人が出場した最終選考会で渡邊は1勝5敗(一部の試合は行われず)の6位タイだったが、代表の追加メンバー3人に選ばれて初めてデ杯代表チーム入りした。追加されたのは渡邊、本井、小浦猛志(関西学院大)という関西の学生3人だった>
最終選考会を神宮コートでやった年ですね。選ばれた理由はよく分からないな。その年の年末に翌年4月に開催される対韓国戦のメンバーが新聞に発表されました。宮城さんがプレイングキャプテンで、石黒さん、藤井道雄(三菱電機)さん、本井、小浦と私というメンバー。小浦は1年下ですがダブルスがうまかった。代表に選ばれてものすごく嬉しかった。甲南の仲間内では「誰が最初にデ杯メンバーになるか」という話を昔からしていたので、「俺が一番や~!」なんて言っていましたね。
デ杯合宿を東京でやった時に、私と本井、小浦という関西からの3人が田園調布にあった宮城さんの自宅に泊めてもらったことはよく覚えています。
<代表チーム入りした渡邊は63年4月に福岡東公園で開催された東洋ゾーン2回戦の韓国戦に起用され、シングルスで2勝を挙げた>
私が起用されたのは当時のデ杯にはできるだけ若手を起用しようという方針があり、この韓国戦は負ける訳なさそうなので渡邊に経験させてみようという宮城監督の判断があったのだと思います。観客4千、5千人が入った中で日本を背負ってプレーするのはやっぱり大変なことなんですよ。負けたら何を言われるかわからない。そんな名誉と責任の両方が肩にかかった試合を経験させてもらいました。
相手の韓国の選手も強かったので1セットは取られましたけども、スムーズに入っていけた。監督兼選手の宮城さんが前の晩にお酒を飲みに連れ出してくれました。それで緊張することもなくデ杯に入っていけた。宮城さんには感謝しています。でもそこから結構苦難のデ杯生活になるんです。
【第9回】甲南大卒業後、住友軽金属へ
<渡邊は甲南大を卒業すると1964年に住友軽金属(現・UACJ)に入社した。住友金属(現・日本製鉄)から分離して59年に設立された住友軽金属は、62年に小西一三(立大)と平野一斉(甲南大)を採用したのを機に一般社員愛好者による部活動から格上げした庭球団(テニス部)を作っていた。渡邊と同じ甲南大の小林功が庭球団2期生だった>
就職先としてはテニスに理解のある三菱電機や日本生命も選択肢の一つでしたが、親父の勤めていた日本板硝子が住友系列でしたから、親父の「行くなら住友系に行け」という一言で住友軽金属を選びました。住友軽金属は東京の会社でした。大学に上がる時には、東京の大学に進んだ仲間もいる中で、私は東京に行って一人で生活するのは嫌だと親元から通える甲南大に進みましたが、この頃になると海外もいろいろ経験したこともあって東京生活には何ら抵抗感はありませんでした。
住友軽金属は田中季雄社長(後の日本テニス協会理事長・会長)が京大テニス部の出身でした。トップがテニス好きだったのもあって、社会貢献の一環としてテニス部を作った。総務部長の西直彦さんが取りまとめ役でした。西さんは住友金属で野球部を作って大きくした人で、住友軽金属のテニスを住友金属の野球のような存在にするという構想を持っておられたんです。
部員は全日本学生のシングルスで優勝した小西さんとダブルスで優勝した平野さんが先に入っていて、私と小林が64年に入社した。次の年に渡辺功(早大)が入ってます。その後は70年になって坂井利郎(早大)と神和住純(法大)が入った。その次は平井健一(法大)。さらに待鳥明史(早大)、西尾茂之(早大)と続きます。毎年、入ってくるということではなかったですね、ほんとに全日本学生で優勝するくらいでないと入れなかった。それだけ住友軽金属にはプライドがあったんです。
小西さん、平野さんは、午前中に仕事をして午後から練習、そして試合があれば出かけるという生活だと聞いていました。私もそういう生活かと思っていたんですが、最初から違っていました。大学4年の冬はインド遠征に派遣されて、戻るとそのままデ杯合宿。大学の卒業式にも、会社の入社式にも出席できませんでした。なんとも区切りのない社会人のスタートですね。テニスの行事を優先させていきましたが、今から思うと会社にどう話して了解を得たのか覚えがないんです。当然のようにそういうところへ行きましたね。
<渡邊は64年1月、石黒修(三菱電機)、小西一三とともにインドで開催されたアジア選手権などに派遣された。3月に帰国すると、デ杯代表チームに合流して、同年4月にはフィリピンで行われたデ杯東洋ゾーン準決勝、フィリピン戦に出場した>
【第10回】デビスカップ・フィリピン戦
<1964年のデ杯はフィリピンのマニラで行われた。当時のフィリピンはアンポンとデイロという二枚看板と次代を担うホセを擁して、東洋ゾーンで日本の前に立ちふさがる壁だった。東洋ゾーンが創設された55年から63年までに、日本はフィリピンとホーム・アンド・アウェーで7度対戦して3勝4敗の負け越し。特にフィリピンに遠征した対戦では3戦全敗だった>
64年の対戦は、石黒修(三菱電機)さんと私の2人でシングルスを、ダブルスは石黒さんと渡辺功でやりました。40代のアンポン、30代のデイロはちょっと盛りを過ぎた頃でしたね。会場はマニラです。リサール・メモリアルという有名なコートがフィリピンの本拠地で、相手は本当にコートを知り尽くした感じでした。そこはクレーに砕いた貝殻を混ぜたシェル・コートで、目が粗いから摩擦係数が高くなってすごくバウンドが跳ねるんです。フィリピンの選手がドロップショットとやると、ボールが戻る。そのドロップショットとロブがフィリピンテニスの特徴みたいなもので、日本はキリキリ舞いさせられたんです。宮城淳さん、加茂公成さんという大先輩もそれに悩まされてきた。フィリピンの観客は柄が悪くて、ものすごい野次を飛ばしたり、足をドンドンやったりして、「ダブルフォルト、ダブルフォルト」なんてヤジを平気で飛ばすんです。
<フィリピン戦は第1日のシングルスで石黒と渡邊が連敗、第2日のダブルスでも石黒/渡辺がデイロ/ホセにストレート負けして3連敗で勝敗が決した。最終日のシングルスも連敗して5戦5敗という完敗だった>
この遠征では一つ事件がありました。加茂監督らと外で食事を済ませ、ホテルに戻ろうとしたとき、暗がりで3、4人の男に囲まれたんです。現地でアテンドして下さっていた商社の駐在員の方が、タガログ語で声を荒げて話すと相手は引き下がりました。助けてくれたこの方が沢松正さんでした。私の兄が全国中学(今の高校総体)と全日本学生で優勝したときのパートナーで、沢松姉妹の叔父さんです。怖い思い出ですが縁はいろんなところに現れます。
この時のマニラでは完敗でした。日本の4月とは比べものにならない暑さもあったし、アンポン、デイロという名前にも負けていた。それに「マニラ行ったら勝てない」という思い込みもあって、それに押しつぶされました。実際にやってみたら、やっぱりやりにくい相手でした。ドロップショットを使われて、それを拾うとロブで抜かれる。ロブで抜かれると観客が大歓声を上げる。それにカッとしたりという感じでしたね。しかしその中でも初対戦だったアンポンとの一戦が5セットに及んだことで、心の中ではわずかですが「次は行ける」という自信めいたものもつかんでいました。
<65年のフィリピン戦は東京・田園コートで行われ、日本が5-0で完勝した。66年のフィリピン戦は再びマニラに遠征しての対戦だった。対戦は2勝2敗となって決着は渡邊とデイロの最終戦のシングルスに持ち込まれ、渡邊が勝って日本が勝利を収めた>
この時は石黒さんと二人で単複を戦い、私にとってはデ杯で最高の思い出として深く心に刻まれています。大黒柱の石黒さんが珍しく戦う前から弱気で、「康二、頼むぞ。俺はここが苦手なんだ」と言うんです。初日は私が第1シングルスに勝ち、石黒さんはデイロに負けて1勝1敗。ダブルスに勝ったものの最終日のシングルスでは石黒さんがアンポンに敗れて2勝2敗になりました。私が最後のデイロ戦を制して、フィリピンから敵地で初の勝利でした。100余年の日本のデ杯史では100余人が代表に選ばれていますが、その中で2-2からの最終決定戦を戦ってそれに勝利したのは13人しかいないんです。大きな自信になりました。
ちなみに石黒さんは61年の田園でのフィリピン戦、初日に0-2とされてから大逆転する対戦で、最後の試合でデイロに勝ってヒーローになっておられます。デイロが2度も「悲劇の主人公」となっているのは面白いですね。
【第11回】海外派遣で欧州へ
<マニラでのデ杯、フィリピン戦を終えて帰国した渡邊は総務課に配属された>
会社では総務課で取締役会の文書事務をやりました。午前中は仕事をして、午後から練習ですね。1年目は東伏見(東京)にあったテニスクラブのコートを借りて練習させていただいたと思います。入社して2年目に会社が吉祥寺(東京)に2面のコートを作ってくれました。当時の日本では珍しいハードコートでした。
住まいは住友系列のいろんな会社の人間が入っている三鷹(東京)の独身寮です。布団だけ送った記憶があります。あとはカバンに荷物を詰めて持って行った。それから徐々にそろえていったと思います。
だけど独身寮にいる時間はあまりなかったですね。その頃は遠征でよく海外に行っていました。独身寮の2年目か3年目に、泥棒に入られたことがあります。帰ったら部屋中が荒らされていたんですが、ほとんど取られるものがなかったと思います。27歳で結婚するまで独身寮に入っていました。
<日本テニス協会は61年から強化策の一環としてトップ選手を欧州遠征に派遣していた。ただ、協会派遣といっても実際は所属企業が寄付するかたちで費用負担するもので、64年には住友軽金属から渡邊と小西一三が初めて参加した。メンバーは欧州遠征が4年目となる石黒修(三菱電機)と3人だった>
住友軽金属の海外派遣は私が入ってから始まりました。石黒修さん、藤井道雄さんは三菱電機でその前から行っていました。石黒さんは61年にウィンブルドンの前哨戦で当時世界ナンバー1だったニール・フレーザー(豪)に勝っていたので、ウィンブルドンなんかでは有名でした。それに乗っかって小西一三さんと私が行ったんです。
日本テニス協会からの派遣ではあるんですが、選手の所属する会社の出張扱いでした。欧州ラウンドトリップ航空券(東京-パリ-ロンドン-東京)と航空券用小切手、1000ドルのトラベラーズチェックをいただいて、5月に出発して9月まで遠征を続ける前提でしたが、お金がなくなったら帰ってくるというものでした。
この頃は、1ドルは360円、ロンドンでの宿泊は一泊朝食付きで1ギニー(1ポンド1シリング=1100円)という時代でした。ウィンブルドンのオフィシャルホテルもなく、各選手バラバラに泊まっていました。我々の宿舎にもM.ベルキンなどカナダの選手が一緒でした。
遠征のノウハウは石黒さんから教えてもらいました。まずは各国のトーナメント日程を入手することから始まります。欧州の主要大会リストのほかにイギリス、フランス、ドイツ、スイス、スペインなどで数多くの大会が開催されていた。その中から自分に合った大会、参加選手のレベルや大会規模、さらには宿泊条件などを考慮して日程を組んでいくんです。
【第12回】初めての海外遠征
<渡邊は住友軽金属に入社2か月目の1964年5月、石黒修(三菱電機)、小西一三(住友軽金属)とともに初めての欧州遠征に出発した>
石黒さんに教えてもらって、日本にいる時にいろんな大会に「出場させて欲しい」という手紙を出しました。「ソーリー、ノー・バージェット」とかなんとか返事をくれるところもありましたし、返事がないところもありました。手紙を書いたのは主なところだけで、それで足りないところは、遠征で最初に行ったフランス選手権(現在の全仏オープン)会場で交渉しました。会場には欧州各国のトーナメント・オーガナイザーみたいな人が来ていたので、そこで自分を売り込むんです。試合の合間にそういう人を探して交渉するのも大事な「仕事」でした。
スイスの夏のトーナメントをまとめていたのはリリーさんっていう人でした。その人を探して、「7月の何日の週に大会に空きはないか」と聞くんです。向こうは各トーナメントの招待選手のリストを持っていて、「それじゃあここはどうだ」と大会を挙げてもらい、出場の交渉をするわけです。ドイツとかほかの国にもそういうまとめ役みたいな人がいましたね。
初めてだった64年は全く名前が売れていなかったのでまさに暗中模索でした。石黒さんは実績があるのでグレードの高い大会に出場できたので別行動です。小西さんと私は日程に穴をあけないように必死に出場できるトーナメントを探しました。大会に出場できればその週の滞在費は大会側がみてくれる。日程に穴をあけるということは、滞在費とかが自前になるのでその負担は大きい。だから大会が支払ってくれるエクスペンス(費用)よりも何よりも、とにかく試合に出ることを最優先させました。
今考えるとスマートフォン、パソコンなどがない時代にどうしてあんなアレンジができたんだろうっていうぐらいです。もう次の週の大会がないという時は、公衆電話で「大会に呼んでくれないか」という交渉をやりながら試合に出ていました。大会のエクスペンスは我々のように初参加の選手は50~100ドルが相場なんですけど、それが50ドル以下でもホテルがつけばいいと。欧州ラウンドトリップ航空券があったので、ルート変更の手数料を払えば飛行機でほとんど回れました。困るのが列車での移動です。どうやって切符を買うのかもよく分からない。駅の案内アナウンスも理解できないし行き先がこれでいいのかっていうのも不安でね。空港から列車で移動して行くっていう大会はできるだけ避けていましたね。だから大会に行って粗末なホテルへ入れられても文句を言わずにやっていました。
シングルルームに泊まれることはまずありません。ほとんどツインルームです。石黒さん、小西さん、渡辺功とは同室を多く経験し、多少はもめることもありましたがおかげで本当に気心を知ることができました。
【第13回】フランスから英国へ
<フランスからスタートした欧州遠征は、フランス選手権(今の全仏オープン)を終えると次は英国での芝生の大会が待っていた>
全仏の後はイギリスに渡るのですが、私は芝生が得意じゃなかったし、「ヘイ・フィーバー(花粉症)」が出るので、ウィンブルドンが終わってクレーの大会に戻るのが待ち遠しかったですね。ウィンブルドンの時期はいつも我慢していました。私はテークバックを上からひいているから、芝生のコートで滑ってくる低いバウンドには合わせにくいんですよ。芝生の時期はあんまり楽しくなかったですね。
イギリスには小さい大会がいっぱいあるですが、それが「ダンロップ系派」と「スラゼンジャー系派」に分かれていた。当時「フタバヤ」のラケットを持参していた私らには誰も声をかけてくれない。石黒さんはダンロップ系の大会をまとめていたボブ・ハウという人と親しくて、「日本の選手がこれだけいるけど頼む」と口をきいてくれて、ボブが大会を振り分けてくれました。それで芝生の試合に慣れてウィンブルドンということになる。
初めてだった1964年のウィンブルドンは予選に回されました。予選は今と同じローハンプトンでしたが、それはすさまじいものですよ。審判が1人いるだけでボールを6個渡される。ボールパーソンなんていやしない。そういうコートが、仕切りもなくてずっと並んでいるんです。沢松和子が1度予選に出て「2度と来たくない」と言いましたが、気持ちはすごく分かります。米国選手で気性の激しいやつが、ミスしたかミスジャッジに怒ったのかは知りませんが、ボールを思い切りコート外に打ったら、審判に一言「取ってこい」と言われて、スゴスゴと遠くまでボールを取りに行ったなんていう面白いシーンもありましたね。この時はそこで負けて本戦に進めなかったので、初めてのウィンブルドンは観戦しただけで終わりました。本戦出場者と予選敗者では、月とスッポンの差があります。本戦出場者は暖かい食事をいつでも食べられますが、予選敗者はまったく一観客と同じ扱いです。
遠征にはラケットを4、5本持っていきました。ラケットのキャリーなんかないから、全部脇に抱えていきました。大会でストリングが切れると、自分で現地のスポーツ店に行って張り替えてもらう。今みたいに大会にストリンガーなんていませんから。いろいろ聞いていかないといけないから、スポーツ店を探すのも大変でした。どうしても見つからないときは自分で切れた部分を継いでいましたね。シューズは2足ぐらいを持って行ったかな。芝用のシューズなんてありませんでしたからずっとクレー用を履いてやっていました。
あのころの大会は男女の同時開催が普通でした。ミックスダブルスもあったからよく出ましたよ。コートが大会で使われていて練習する機会がなかなかないので、とにかく練習になればとミックスに出るのも常識でした。3種目フル出場ですからね、よくやったなと思います。
試合が終わってホテルに戻ると、ウェアを洗濯しないといけない。ロンドンにはその頃からコインランドリーがあって、ウィンブルドンの時はそれに洗濯物を放り込んでその間に食事に行くこともできましたが、それ以外は手洗いで洗濯しなきゃいけないから毎日忙しかったですね。
【第14回】全日本選手権で初優勝
<1964年の欧州遠征で渡邊は小西一三とともにフランス~英国~西ドイツ(当時)~スペイン~イタリアを回って、9月下旬に帰国した>
日本に戻ると、デ杯代表の選考会はなくなりましたが、団体戦の片岡杯があり、朝日招待があり、全日本選手権もある。社会人の秋というのは結構忙しかったですね。片岡杯は関西で行われていたので、東京と大阪はしょっちゅう往復していました。関西遠征では小林功、渡辺功ら住友軽金属の仲間と私の実家に泊まっていました。おふくろは大変だったと思います。
<渡邊は64年11月に大阪・靱(うつぼ)公園で開催された全日本選手権で初優勝を飾った。62年、63年は準々決勝で敗れていたが、64年は準決勝で2連覇を狙った石黒修(三菱電機)を破ると、決勝では高校時代からのライバルの本井満(帝人)に逆転勝ちした>
全日本選手権はデ杯の次に大事な大会ですね。社会人になり住友軽金属という看板を背負ってやっていましたから、これはいつになく真剣にやりました。
石黒さんとの準決勝は無欲でした。当たって砕けろという感じでね。遠征で長い間一緒の時間を過ごしたので「雲上人」という感覚は消えていましたね。当たって砕けろと思うとフォアが思い切りよく打てるんですよ。反対に守りに入るとフォアが打てなくなって、硬くなるとミスばかり出てくる。その差がすごくあった。だから、思いきりやれる舞台は強かったですね。
石黒さんとはデ杯合宿で何度も5セットの練習試合をやっていました。3セット先取ではなく、セットカウントに関係なく5セットを続けてやるんですが、9割は石黒さんにセットを取られていました。石黒さんのテンポの速い攻めにやられていたんです。でも靱のアンツーカーではボールが遅くなって、石黒さんの攻めにスピードがなくなった。ゆっくりしたストローク戦は私の攻めに合っていて、石黒さんのバックを攻めました。石黒さんはバックがうまかったですが、返ってくるボールは怖くなかったから、ストロークでがんがん押せました。
本井との決勝は、負けたくないというライバル意識がものすごくあったので、同じ全日本という舞台でも石黒さんの時とは気持ちが全然違いました。本井との試合は、私がフォアの逆クロスを打ち込んでもバックのスライスで返されるんです。バックが得意な彼はミスをしないので、私のほうが根が尽きてエラーをする。エラーしないように手を緩めると、彼にダウンザラインに打たれて、フォアに回り込んだ私が厳しくなる。いつもはこんな展開で苦戦するんですが、決勝は石黒さんに勝ったという勢いがあったと思います。
【第15回】海外遠征で豪州、欧州へ
<1964年はそれまで実施されていたデ杯代表選考会は行われず、代わって12月に豪州遠征が行われた。渡邊は石黒修(三菱電機)、小西一三(住友軽金属)、本井満(帝人)、浅井正順(甲南大)とともに豪州に向かった>
石黒さんにリードされて行きました。まずタスマニアに行ってホバートの大会に出た。エマーソン、ストール、セッジマンなどそうそうたる選手が出ていましたね。それからシドニーでニューサウスウェールズ選手権。それからメルボルンに移ってオーストラリア選手権(今の全豪オープン)。格は高い大会なんですが会場のクーヨンの芝生が悪くてイレギュラーが多かった。シドニーのホワイトシティの方が芝生はきれいでしたね。この全豪では石黒さんと組んだダブルスでベスト8に入っています。エマーソン/ストール(ともに豪、64年ウィンブルドンのファイナリスト)と準々決勝をやって、ロングセット2つ(5-7、10-12、3-6)でやられましたが現地の新聞で大きく評価してくれました。当時は全豪オープンに出たという意識はなかった。出場した大会の一つが全豪オープンになってしまったという感じです。とにかく素朴な大会でしたからね。昼飯はクラブハウスに用意してくれているんですけども、サラダボールの中にオーストラリア名物のハエがいっぱい入ってたりしていましたが、みんな平気でそれを除けて食べるんでビックリしました。
<65年4月のデ杯は若手で臨んだフィリピンに日本が快勝した。この時、渡邊は練習中にラケットで左足を強打して初日のシングルスを欠場したが、ダブルスと3日目のシングルスには出場して勝っている。5月には韓国を下すと、渡邊は石黒、小西、藤井道雄(三菱電機)、渡辺功(住友軽金属)とともに欧州に向かった。渡邊は引退する71年まで毎年、欧州に遠征している>
64年のウィンブルドンは予選でしたが、全日本で優勝して日本ランク1位になっていたので65年には「日本のナンバーワン」と書いて申し込んだら、今度はウィンブルドンの本戦に入れました。前の年は小西さんが日本の5番、私が6番だと書いていたと思うんですが、その国のナンバーワンというのは扱いが違うのに初めて気がつきました。
本戦に入るとフレッド・ペリーの事務所が、ウィンブルドン出場選手にセーター、シャツ、ショーツ、ソックスなどウェア一式を無料で配っていました。65年は私もそれをもらいました。それからはロンドンに行くとそれが楽しみでした。それが3、4年続いたかな。そしたら今度は、フランスでもラコステがそういうのをやっていることを知りました。ローランギャロスに出たらラコステが一式くれるわけです。フランスとイギリスでもらったりすると、自分の持っていったウェアは全部、ロンドンから船便で送り返していました。
選手みんながオフィシャルホテルに泊まるなんてなかったですね。ウィンブルドンやフランス選手権は、自分でホテルをアレンジする。地方へ行くと大会側がホテルを用意してくれたのですが、まだ名が売れてない時は安宿があてがわれた。それが成績を残して向こうの評価が高くなると高級ホテルへ泊めてくれる。ものすごい格差がありました。渡辺功と初めて行ったオーストリアの大会は、高級ホテルのそばの木賃宿みたいなところの一つベッドに2人で寝ましたが、それで奮起して功が優勝したということもありました。結婚して家内同伴でツアーを回ったときは、サンモリッツとかグスタッドなど有名避暑地の大会で最高級のホテルに泊まれるまで出世しましたね。
【第16回】1968年、世界のテニスはオープン化へ
<世界のテニスは1968年にオープン化されて、フランス選手権(今の全仏)やウィンブルドンにプロ選手の出場が認められた。渡邊はオープン化前後の時期に欧州遠征を行ったが、欧州の大会は「アマチュアリズム」を信奉していた当時の日本とは事情が大きく異なっていた>
航空券と1000ドルのトラベラーズチェックとかをポンと渡されて、「このお金でいられるだけ行ってこい」という遠征でしたから、長く滞在するために出場した大会が支払ってくれるエクスペンス(費用)、お金を稼ぐっていうのが一つの励みでした。ここは俺をいくらで評価してくれるんだろう、どんなホテルに泊めてくれるのだろうっていうのはすごく興味がありました。ここに強くなりたいという大きなモチベーションを感じていましたね。
フランス選手権は、プロ選手用の賞金とアマチュア選手用の賞金という二つ、賞金がありました。プロの賞金の1割相当のアマチュア賞金を要項に明記していましたね。オープン化前でも、南フランスやベルギーの大会には、勝ち上がるごとにエクスペンスの金額が上がる、実質的な賞金を明示しているところもありました。
68年にウィンブルドンはオープン化されて賞金がつけられましたが、その賞金はプロに対する賞金でした。「アマチュア」という言葉はその頃のウィンブルドンにはなくて、選手は「賞金のためにプレーする選手」と「それ以外」という二つの範疇(はんちゅう)に分けられていて、我々日本人選手は「それ以外」でした。エントリーフォームには「それ以外」の選手には「相応の経費を支給する」という一行がありました。それに基づいてお金をもらうんだけど、結局、アマチュアは1回戦敗者の額をもらう。何回勝とうと1回戦敗者の賞金額でした。
我々の頃は、この大会に出場したいと言って交渉はしますが、エクスペンスの金額については交渉なしなんですよ。こっちが大会に行きたいって申し込んで、「OK、エクスペンスは何ドル」などという返事が来たらそれで契約成立です。不満なら「残念、ほかの大会に行く」でおしまいですね。エクスペンスはヨーロッパの大会の中で認められていた、テニス界独特の費用負担でしたね。まあ結局は地方の大会に行くと、ホテル代と、それから食費は出ないけども昼ご飯ぐらいは会場で出る。でもフランス選手権やウィンブルドンはホテルを用意してくれない。そういうところを回っていくから、交通費などの助けにという意味で、エクスペンスというシステムが昔からあったわけですね。
エクスペンスは選手の実力によって金額が異なるシステムでした。ヨーロッパではそういう風にやってきた歴史がありますから、アマチュアといえども、それに従うべしというような感じでした。アマチュアだ、プロだと言っていられない時代でした。
国際オリンピック委員会(IOC)はこうした事実を知っていたから、アマチュアの大会としたオリンピックの競技種目にテニスは長い間認められなかったのですね。
【第17回】デ杯東洋ゾーンAセクション決勝でフィリピンと対戦
<渡邊らの海外遠征は、選手たちに国際経験を積ませてデ杯チームの強化につなげるのが狙いだった。1966年のデ杯ではその強化策が結果につながった。マニラで行われた東洋ゾーンAセクション決勝のフィリピン戦では、第1試合で渡辺がアンポンにストレート勝ち。第2試合の石黒はデイロにフルセットで敗れたが、ダブルスでは石黒/渡辺で2勝目をつかんだ。最終日は第1試合で石黒がアンポンに敗れて2勝2敗と並ばれたものの、最後は渡辺がデイロを破って、日本がアウェーで初めてフィリピンから勝利をもぎ取った>
第1試合のアンポンとの一戦は出足が悪く、あっという間に2-5とリードされて観客が大喜びする嫌な雰囲気でした。第8ゲームでアンポンが私のバックハンドをついてネットに出てきました。コーチの鵜原謙造さんはこの時「もう駄目だ」と思ったそうです。しかしパスは当たり損ないでしたが何とかクロスに抜けてくれました。その次のポイントも同じようにネットに付かれましたが、今度はバックハンドのダウンザラインがきれいに抜けました。この2本で勢いに乗ってそのまま5ゲーム連取の7-5。その後も6-4、6-3とストレートで勝ちました。ダブルスは相手がベテランの3連戦を避け、若手を起用してきたのでこれは楽勝でした。
最終日の第1試合だった石黒さんとアンポンの試合は、プレッシャーを感じてスタンドで見ていられなくて、控室で気持ちを集中させていました。試合経過を伝えてくれたメンバーから「お前にかかるぞ」と言われた時は寒気がするような感じでした。試合に入る時に鶴田安雄監督からは「倒れるまで頑張れ」と声をかけられました。デイロとの試合は、打って、打って、打ちまくりました。ドロップショットやロブでやられても、それを引きずらずに忘れて、もう何も考えずにフォアで打ち負かしました。
当時は世界ランクなんかなかったので、デ杯でシングルスに2人をエントリーしても、ナンバーワン、ナンバーツーという区別はありません。第1日にどちらと対戦するか、第1試合か第2試合か、第3日の第1試合か第2試合かは、すべて抽選でしたが、デ杯で2対2の重圧を味わったのは、長い日本のデ杯の歴史の中でも、今年の対英国戦での錦織圭選手まで数えて21人しかいません。私にとってもこれが最初で最後でした。特別なプレッシャーのかかった試合に勝てたことは大きな自信になりました。
初めてアウェーでアンポンやデイロを擁するフィリピンに勝った後はすごく気が楽になって、これ以降、フィリピンは「お客さん」になりました。フィリピンの人は陽気なので、フィリピンへ行くこと自体は好きでしたね。親しくなった友人もたくさんいました。ますます好きになってテニスをやめた後もビジネスで何度もフィリピンに出張しました。66年にフィリピンは卒業させてもらったという印象でしたから、あとは打倒インドだけでした。
【第18回】デ杯インド戦の思い出
<デ杯・欧州ゾーンに出場していたインドが東洋ゾーンに移ってきたのは1956年のこと。日本は戦前に2度インドと対戦して2勝していたが、56年から東洋ゾーンでの対戦が始まると、インド戦での連敗が続いた。渡邊はデ杯選手としてプレーした63年から70年の8年間に5度、監督としても1度の計6度インドに敗れている>
インドへは大学4年(64年)と社会人2年目(66年)の2度、アジア選手権に参加するため遠征しました。アジア選手権といってもインドが主催する大会で、イギリス、ギリシャ、アメリカ、ソ連(当時)の選手も参加していたと思います。大会の後にクリシュナン、ムカージ、ラルというインドのトップ選手も一緒になって、1か月余りインド国内を回って各地で試合をするんです。北部は芝のコートでしたが、中ほどはアスファルト(牛糞)のハードコート、南部はクレーコートでしたね。日本は冬で何もない時期でしたから、外国へ行って暑いところで体を鍛える方がいい。それとインド選手に慣れるっていう二つの目的でインドへ遠征しましたね。
<渡邊が初めてデ杯代表となった63年は田園コロシアム(東京)でインドと対戦した。この時は宮城淳(ゼネラル物産)と石黒修(三菱電機)がシングルスに出場した。第1日のシングルスは宮城がクリシュナンに敗れたが、石黒がムカージに快勝して1勝1敗で終えた。第2日のダブルスは敗れたものの、第3日の第1試合で宮城淳(ゼネラル物産)がムカージに勝って2勝2敗とした。しかし、最終試合で石黒修(三菱電機)がクリシュナンに敗れ、日本の敗戦が決まった>
この時のインド戦はメンバーには入らず、田園コロシアムのスタンドでチームと一緒に見ていました。対戦が終わってから宮城さんに会った時に、「シングルスおめでとうございます」と言ったら、「日本が負けた後に何を言うんだ」としかられました。
そのころのインドはクリシュナンが絶対的存在で、ムカージとラルという2人がライバルで2番手争いをしていました。クリシュナンは全然スマートじゃない。足も速くなくてフォームも素人っぽくぎこちない、だけどもエラーはしないし。今の選手にはいないタイプですね。攻撃されるのを受け止めて、カウンターパンチを見舞うのがうまかった。ムカージはちょっと変則タイプだったけど、ラルは奇麗でオーソドックスなテニスをしてましたね。
<37年生まれのクリシュナンは、60年、61年と2年連続でウィンブルドンの準決勝に進出、62年のフランス選手権(今の全仏オープン)でもベスト8に進んだトッププレーヤー。42年生まれのムカージもウィンブルドンと全仏で4回戦に進出、40年生まれのラルもウィンブルドンと全仏で3回戦に進出している実力者だった>
【第19回】1965年のデ杯でインド戦に初めて出場
私が初めて出場したデ杯インド戦は、1965年に田園コロシアムで行われた東洋ゾーンの決勝です。最初に対戦したのがムカージで、これが実にやりにくい相手でした。フィリピンのデイロも球筋の非常にいやらしいスライスにドロップショットやロブを使ってきましたが、ムカージもスライスを使った変則プレーで、第1セットは0-6で取られると、その後も4-6、5-7で落としました。でも、クリシュナンにはかなり競ったんです。6-8、2-6、7-9というスコアでした。
この時は石黒さんと組んだダブルスで、クリシュナン/ムカージに勝ちしました。戦後のインド戦で唯一のダブルス勝利です。つい最近までパエスとかブパシ、ボパンナとかが活躍したように、インドはダブルスが強かった。だからインド戦のダブルスで勝ったのは一つの誇りです。5学年も上の石黒さんと組んで、怖がらずによくやったなと思ってね。石黒さんとは一緒に遠征に行って、そして一緒に飲みにも行って、いろいろと教えていただいたりしたので石黒イズムは頭の中に入っています。
<65年のインド戦は、シングルスで渡邊と石黒修(三菱電機)がムカージとクリシュナンに連敗したが、ダブルスでは渡邊/石黒がムカージ/クリシュナンを6-3、6-4、2-6、6-4で破っている。ただ、最終日のシングルスでも渡邊、石黒が連敗して、1-4でインドに敗れている。戦後、日本はインドと20度対戦しているが、ダブルスでの勝利は渡邊/石黒の1度だけだ>
66年に対戦した時には、第1日のシングルスでラルを破りました。第5セットの4-4で日没順延になって2日がかりの試合でした。相手にマッチポイントがあったのも鮮明に覚えてます。ラルがネットに出てきてボレーをして、もう決まったと思って向こうは喜んだんだけどもわずかにサイドアウトしていて、そこから逆転した。最後は9-7。あれは私が結構上り調子の時期だったから勢いがあったんでしょうね。ラルは身長が高くてサーブが良かったですが、奇麗なテニスだからくみしやすかった。
<66年のインド戦も田園コロシアムが会場だった。第1日は渡邊の踏ん張りもあって1勝1敗で終えたが、そこから3連敗して敗れた。渡邊のクリシュナンとの2度目の対戦は2-6、5-7、0-6という一方的な展開だった>
クリシュナンは頭がいいんですよね。作戦がもう見事なんです。最初の対戦で私が回り込みフォアをガンガン打って、ストレート負けだったけど、結構いい試合をしたので、次の対戦からはプレーをがらりと変えてきました。2度目の対戦では、今度は回り込みをさせないようにバックを狙うのではなくて、私のフォアサイドのコートのネット際にドロップショットを落としてきた。これを徹底的にやられて、得意の回り込みフォアを使えずプレーをガタガタにされた。最後(68年)はネットプレーに出られて、パスが通らなかった。毎回作戦が違ったんです。この人は頭いい人だなという憧れを捨てきれなかったですね。
【第20回】インターゾーンへの壁、インドとの対戦
<1967年のデ杯インド戦はニューデリーでの開催だった。石黒修(三菱電機)は代表を退き、渡邊と小西一三(住友軽金属)がシングルスに出場した。クリシュナンはダブルスだけの出場だったが、日本は渡邊が芝のコートに力強いサーブを打ち込んでくるラルに敗れるなど第1日のシングルスで連敗、第2日のダブルスも敗れて、3連敗で敗退が決まった。第3日に渡邊がムカージを破り一矢報いたものの1-4での敗戦だった>
インドでやったデ杯では、芝のコートで勝てるとは思えなかった。勝てるとするとクレーしかないだろうと思ってました。インドのデ杯会場は、クリケット場の芝に急ごしらえで作ったコートと仮設スタンドで、我々が到着してもまだコートが出来てないなんてこともありました。クリケット場の芝だから雑草交じりで、ウィンブルドンなんかとは全然違って、イレギュラーバウンドが多かった。滑るところは滑るし、慣れていない我々には実にやりにくいんです。
第3日第4試合でムカージとやりましたが、向こうは勝敗が決まった後だったのであまりやる気がなかった。ムカージはまじめなラルと違ってそういう選手なんです。それで勝ったみたいなもんです。
<68年は田園コロシアムでインドと対戦したが、渡邊はクリシュナンに3度目の黒星を喫するなど、日本はシングルスとダブルスで3連敗して、第3日に渡邊がラルから1勝しただけで終わった。69年はインド開催で0-5という完敗。日本は65年から5年間東洋ゾーン決勝でインドに連敗した。さらに70年には豪州も東洋ゾーンに参戦してきた。渡邊が選手として最後にプレーした70年は東洋ゾーンAセクション決勝で豪州に敗れていた>
日本は宮城淳さん、加茂公成さんがプレーした55年に東洋ゾーン決勝でフィリピンに勝ってインターゾーンに進んでいたので、アジアのナンバーワンになってインターゾーンに進むというのが大きな目標でした。その壁になっていたのがフィリピンとインドです。
私がデ杯の選手になって、打倒フィリピンっていう思いは短期間で終わりましたから、あとは打倒インドしかなかった。でもインドと5回対戦して勝てなかった。インド戦には屈辱と悔しさが残りました。ラルにもムカージにも勝ちましたがクリシュナンに勝てなかった。クリシュナンには、勝てそうな雰囲気もあったというか、もっといけるという雰囲気もあったんですけども、いつもかわされたことがちょっと悔しかったですね。
インドにはもう少しで勝てそうだと思っていたら、70年にオーストラリアが東洋ゾーンに入ってきた。オーストラリアの選手はサーブがすごいしネットプレーにどんどん出てくる。全豪に行って芝のコートでやられていて、向こうの強さは肌で感じていましたから、オーストラリアっていうのはちょっと劣等感がありましたね。インドのほうがオーストラリアよりくみしやすいと思っていました。
【第21回】選手としての引き際
住友軽金属に入社して2年目か3年目くらいには、引き際を考え始めてはいました。いつまでこんな風にテニスやるんだろうかって。でもまだ勢いがあるもんだから、このまま行けばいいところまで行くかな。世界の何番目ぐらいまでっていう具体的な目標はなかったですけど、ウィンブルドンで3回戦までは行ってみたいという気持ちもありました。でも、会社で仕事も少しはかじっていましたから、早くにこの仕事を全部任されるようになりたいという意欲もありました。テニスにのめり込むのは怖かったし、テニスと仕事の二つで悩んではいました。プロ選手になる気はまったくありませんでした。そんな度胸は私にはなかった。
結婚が転機になりましたね。結婚したら家族も出来たから、いつまでもテニスをやっていられないっていう気持ちになりました。結婚したのは1969年の2月、同僚の渡辺功の紹介で出会いました。69年の欧州遠征は新婚旅行を兼ねて、河盛純造(日本生命)夫妻と沢松姉妹と一緒に行きました。でも69年も結構成績は良かったんですよ。全仏では1回戦でロッド・レーバー(豪州)に1-6、1-6、1-6で完敗しましたが、ウィンブルドンの混合ダブルスでは沢松和子と組んでベスト8に入り、ヨーロッパの大会でシングルスとダブルスで何度か優勝しました。でも、オーストリアのキッツビューエル大会に出て右手首を痛めてしまったんです。
<渡邊は64年に全日本選手権を初制覇すると67年、68年と連覇して、69年は4度目の優勝を狙って挑んだ大会だった。第1シードに入った渡邊は順当に勝ち上がったが、準々決勝で法大4年の神和住純と対戦して、2-6、6-2、6-4、2-6、5-7と逆転負けした>
帰国して手首の治療はしました。治ったなと思っていたんですけど、全日本で神和住と対戦した時に、また痛みが出てきてしまいました。大学生の神和住はまだ負ける相手ではないと思っていたので、第1セットは取られましたがまだ余裕しゃくしゃくでした。続く2セットを取り返したんですが、第4セットで気を抜いたのがいけなかったですね。これを取られて第5セットになると途中から手首の痛みが出始めて、サーブができなくなった。下からサーブしたりして、棄権すればよかったのに最後までやってしまった。神和住に負けて、これでもうおしまいだという線がはっきり引けました。でもその時はデ杯の監督になるとは考えてもいませんでした。
<渡邊は70年も欧州遠征に出たが、出場大会は大幅に減った。ウィンブルドンに出場した後は、日本庭球協会(当時)の田中季雄理事長とともにワルシャワ(ポーランド)で開催された国際ローンテニス連盟(当時)総会に出席した。68年にオープン化された中で、プロの出場を認めなかったデ杯のオープン化が議題となっていた。その後いったん帰国し、同年9月にはユニバーシアード・トリノ大会(イタリア)にテニス監督として参加した。その会場で「71年のデ杯を最後に引退する」と表明した渡邊だったが、その年の12月にデ杯監督に指名された>
【第22回】デ杯日本代表の監督に
<日本庭球協会(当時)は1970年12月、71年のデ杯代表チームを決めた。28歳の渡邊康二は選手兼任で史上最年少の監督に指名された。選手には神和住純(住友軽金属)、坂井利郎(同)、九鬼潤(法大)、平井健一(同)ら若手が多く選出された>
誰もいないから監督をやれと言われたのは70年の年末です。前任の上原増雄さん、その前の太田芳郎さんは2人とも60代の監督でしたから、一気に20代まで若返りました。選手にも選ばれていたので兼任監督です。宮城淳さんも石黒修さんも選手兼任の監督だったから、私は選手兼任がそんなに特別なことだとは思わなかった。でも監督になって対戦にエントリーする選手を選考する段になって、私は29歳になった自分を選ばなかった。選手としては27歳、28歳の辺がピークかなと常々思っていました。また、神和住純と坂井利郎が育ってきていましたから、これはもう若手に譲るのが普通だろうなと思ったんです。
でも選手をやめた訳ではありません。全日本で神和住に負けて選手としての限界は感じていたし、結婚もしてもう潮時だという思いはありました。ただ、デ杯代表は辞めると宣言してみたけど、まだやれるという思いもありました。毎日選手権とか一般の大会に出たら勝っちゃったっていう感じで、もうしばらくこのままやるかと。その頃は「アマチュアに引退なんてない」というのはよく言われたんです。71年もウィンブルドンに行っています。柳恵誌郎(朝日生命)さんと組んで男子ダブルスの本戦に出ているんですよ。秋には全日本も出場しました。その時も神和住にやられました。準決勝でした。71年で現役終了ですね。デ杯のオーストラリア戦で選ばなかった神和住に、私の選手生活のとどめを刺された感じです(笑)。
監督はいつまでという期間はありませんでした。でも監督はフレッシュでなきゃいけないんですよ。名伯楽なら長いことやってもいいですけど、自分で育てた選手と一緒にやってきた監督でもないし、監督になって斬新な方針を次々と打ち出せなくなり、惰性の世界に入ってしまったら次に替わるべきものだと。それで4年が限度っていうのを自分の中で作っていました。
選手とともにコーチに渡辺功を指名すると、協会はもうあとは任せたっていう感じでした。マネジャーもいないんです。どう体作りをするか、どこで合宿をやるかっていうのをまず考えました。国民体育大会(現・国民スポーツ大会)が和歌山県であった年で、和歌山県日置川町(当時)に新しいコートができたから、そこで練習をやらないかっていう誘いがあった。それで行ってみたらトレーニングするには格好の場所でした。大きなグラウンドがあって、山道も砂浜もある。1年目は多少テニスをやりましたが、2年目は和歌山ではラケットは一切握らない合宿の1週間でした。もう走って、走って、それからサッカーをして。体作りばかりをしていました。「日置川」はこの合宿に参加したデ杯選手、候補選手にとっていつまでも自分のテニスの原点のように重要な部分を占めています。プロ選手もいないし、今のようにランキングポイントの獲得に奔走することもない。思う存分の時間を使ってみっちりと鍛え、和歌山の後に鹿児島や静岡という温かいところを選んで、合宿をかなりやりました。長期間やったからみんな家族みたいな団結心ができたなっていうのを感じていました。
【第23回】豪州戦の思い出
<監督1年目の1971年、日本は東洋ゾーンAセクション準決勝のマニラでのフィリピン戦は九鬼潤(法大)がシングルスで2勝する活躍などで快勝した。Aセッション決勝の相手は、前年に敗れていた豪州との対戦だった。監督の渡邊はシングルスに坂井利郎(住友軽金属)とともに30歳でチーム最年長の柳恵誌郎(朝日生命)を起用して周囲を驚かせた>
デ杯の監督で一番記憶にあるのは71年のオーストラリア戦。この対戦で柳恵誌郎さんをシングルスに起用したことですよ。もうそれに尽きます。柳さんが緩い球でオーストラリアの強打を翻弄(ほんろう)したので、監督としては「してやったり」というところでした。
柳さんはパッシングショットが抜群にうまかった。オーストラリアの選手は大柄だし、当時はサーブアンドボレーが典型的なオーストラリアのスタイルだったので、相手は全部ネットに出てくるわけですよ。相手が出てくると、柳さんはパスが上手いから、オーストラリアは焦るんですよね。また、柳さんは特にサーブが緩いから、緩いとやっぱりレシーブをしてネットに出てこざるを得ない。前の方に来てリターンを安全に返して、また後ろへ下がるなんてことをオーストラリアの選手は絶対やらない。そのまま出てくるとパスで抜かれる。そうなるとどうしていいかわからなくなって、それでエラーを重ねてくれた。緩いサーブの効用を最大限に利用したみたいなもんですね。
<この豪州戦では、第1日のシングルスで柳がクーパーを6-3、6-4、2-6、1-6、6-3とフルセットで破ると、坂井もディブリ―に5-7、8-6、6-3、6-2と逆転勝ちして、日本が2勝を挙げた。その後ダブルスと柳のシングルスを接戦で失い2-2と追いつかれたが、勢いは失われなかった。最終シングルスで坂井がクーパーとの2日がかりの試合を6-1、15-13、8-6で制して、豪州から50年ぶりの白星をもぎ取った>
坂井は練習をものすごく真面目に最後までやるし、何よりしっかりしたテニスをしていました。いいサーブがあるしボレーもうまい。なんでもできてしかもパワフル。だからこれはチームの中心だと考えていました。ダブルスは坂井/神和住と河盛/小浦という2組を持っていたので、オーストラリアでは坂井に単複というのは負担が重いだろうと思ったんで、河盛/小浦を起用しました。
最後の試合ではクーパーがちょっと硬くなってた。オーストラリアとしては、よもや日本にここまで追いつめられるとは考えていなかったと思うんです。「これは大変だ。自分に勝敗がかかってきた」というプレッシャーがものすごかった。その点、坂井は「ここまでオーストラリアと互角に戦っているんだから思い切り楽しむか」という楽な気分でやってたんじゃないかと思うんです。
坂井はすごく伸びのびとやりましたね。自分の思う通りのテニスができたんじゃないかな。まさに相手のやりたいことを先にやるという作戦ですね。サーブを入れて先手を取ってサービスキープを続けた。レシーブサイドでは相手のセカンドサーブでネットへ出てボレーを決めるっていうのもあった。それで、クーパーには何が何でもファーストサーブを入れなきゃいけないというプレッシャーもかかってきた。ファーストサーブを入れてネットに行きたいのに、ファーストサーブが入らずにセカンドサーブでは坂井にネットへ出てこられる。そのプレッシャーで自分のプレーを見失ったという感じでしたね。日没で中断した夜は、その頃はチームが大広間で雑魚寝していたんですが、坂井だけ別室にしてゆっくり休ませました。そしたら坂井は「よく眠った」と翌日はすっきりして、疲れも取れた様子でした。
【第24回】71年のデ杯インド戦
<1971年のデ杯東洋ゾーンAセクション決勝で、50年ぶりに豪州を破った日本は、東洋ゾーン決勝でインドと対戦した。渡邊はシングルスに豪州戦と同じく坂井利郎(住友軽金属)と柳恵誌郎(朝日生命)、ダブルスには坂井/神和住純(住友軽金属)を起用した>
インドは曲者のクリシュナンが監督兼選手でしたし、オーストラリアみたいに簡単にはいかないなと思っていました。インド戦では坂井に期待して、オーストラリア戦の直後くらいに次はシングルスとダブルスの3試合に出てもらうと予告しました。それがいけなかった。
坂井にすごいプレッシャーを与えてしまったんですね。坂井はまぶたがケイレンしたりするし夜も眠れないというので、対戦の1週間くらい前に坂井に内緒で病院の先生に症状を話して相談しました。ドクターからは、坂井はストレス過多なので試合に使わない方がいいと言われたんですが、坂井はオーストラリア戦勝利の立役者ですから、使わないという選択肢はまったくなかった。坂井には何事もないように練習を続けさせました。練習を休ませればまだよかったんでしょうが、坂井に何の対処もしないでインド戦に臨んだんです。
そしたら、やっぱりドクターの見立てが的中しました。坂井は足がもつれた。フットワークがもう全然ダメで転んだりして、0-6、0-6で2セットを落とし、最後に少し立ち直ったものの4-6でそのまま負けてしまった。柳さんはインド戦では選ばれるとは思ってなかったかもしれない。それが選ばれたので、男気を感じて頑張ってくれて、初日は坂井が負けた後でラルに1勝してくれた。でも、坂井と神和住のダブルスは第5セットまでもつれて、6-5リードの場面で神和住がポーチに出たボールをムカージが背面ボレーのファインプレーで返してきて、あわてた神和住がエラーした。そこがターニングポイントになって6-8で押し切られた。3日目のシングルスでも坂井がやられて終わってしまった。71年のオーストラリア戦とインド戦は、監督としてはもちろん、私のテニス人生の中でも一番の喜びと後悔が残るビッグイベントでしたね。
<渡邊が監督として初めて臨んだインド戦は、勝敗が決した最終試合で柳が勝利したが、期待した坂井がシングルスで連敗、坂井/神和住のダブルスも落とした日本が2勝3敗、インド戦で10連敗目を喫した>
【第25回】デ杯東洋ゾーンでの戦い
<渡邊の監督2年目となる1972年は、東洋ゾーンAセクション準決勝で南ベトナム(当時)とアウエーで対戦した>
この時はサイゴン(今のホーチミン)に行きました。まだベトナム戦争の最中です。開会式に副大統領だったグエン・カオ・キが出てくるっていうんで、兵隊が機関銃を持ってコートの周りを警備している。そんな異様な雰囲気の中で試合が始まるんです。
相手はボ・バン・バイとボ・バン・タンという40歳を超えた選手なんですけど、我々が現地に入っても相手はほとんど練習をしないんです。練習もしないでタバコばっかり吸っているので、こんなのは楽勝だと臨んだら、大変なことになった。相手がものすごくうまくて、坂井利郎(住友軽金属)が第1試合でバイに逆転負けした。神和住純(住友軽金属)が第2試合でタンに勝ったんですが、次の日のダブルスは神和住/坂井が負けそうになった。相手はシングルスに出たバイとタンのペアだったんですが、これもめっぽううまくて、神和住/坂井がマッチポイントを握られた。マッチポイントではイージーボールを相手が強打してネットにかけてくれて、日本が息を吹き返した。最後はタンが全身ケイレンを起こして相手の途中棄権でした。スコアは4-6、4-6、6-3、12-10、1-3棄権。タンは次の日シングルスで坂井と対戦する予定だったので、これは助かったと思いました。なにせ最終戦の神和住対バイの試合は、その時のバイの調子からして神和住の苦戦は免れないとみてましたからね。果たして第4試合は坂井がタンに代わって出場した選手に快勝し勝敗は決したものの、神和住は予想通りバイに負け、何とか3-2で勝ち上がりました。炎熱のサイゴンで体力勝ちしたのはやはり合宿の成果だと痛感しましたね。
これほど冷や冷やしたデ杯もなかったですね。デ杯はやってみないとわからないと毎回言っていますけども、まさにその通りだった。油断したらダメ、諦めてもダメ。そういう面白いことが起こるから、デ杯はやってみないとわからない。だからデ杯は大好きなんです。
<南ベトナムを3-2で下した日本は、東洋ゾーンAセクション決勝で再び豪州と対戦した。豪州には37歳のマル・アンダーソンが14年ぶりにデ杯代表に加わっていた。50年代後半に豪州のデ杯優勝に貢献したベテランは68年にプロテニスを離れなかば引退状態だったが、72年に本格復帰すると衰えぬ実力を示していた>
72年のオーストラリアには元プロが入ってきた。監督のニール・フレーザーは前年の敗北がよほど屈辱だったのでしょうね、すごい対策を講じてきました。アンダーソンには勝てないなという感じでやられました。73年からはデ杯にプロ選手の出場が認められて、さらにニューカムが加わるんです。トッププロが出てきたらもう勝てない。
74年はインドでアウエーの試合でした。73年末に神和住がプロに転向していて、日本ではまだプロがデ杯には出場できなかった。オーストラリアはプロが出場していましたが、日本はまだプレーヤーズ(認定選手)制度を話題にしていた頃です。この時のインドにはアムリトラジ兄弟がいて、坂井がナンバーワンのアムリトラジ弟に負けて、平井健一(住友軽金属)もアムリトラジ兄にやられた。坂井/平井のダブルスも負けてしまった。監督としてはインドに負けておしまいでしたね。
<74年5月、東洋ゾーン準決勝でインドにアウエーで敗れると、渡邊はデ杯監督を辞任した。デ杯は81年にワールドグループ制にフォーマットが変わった。日本は55年から80年までの25年間を東洋ゾーンで戦い、55年こそ東洋ゾーンを勝ち上がってインターゾーンに進出したが、その後はインド、豪州などに敗れて東洋ゾーンを突破できなかった>
【第26回】オープン化の波が世界に広がった時代
<渡邊がデ杯の代表選手、監督を務めた1960年代半ばから70年代は世界のテニスがオープン化に大きくかじを切った時代だった。68年に大会がオープン化されると、70年には国際ローンテニス連盟(当時・ILTF)が賞金大会を組み込んだ国際大会のグランプリシリーズをスタートさせた。その中で日本庭球協会(当時)はアマチュアリズムを墨守する日本体育協会(当時)傘下の団体として、難しい交渉を強いられた。>
あの頃は自分でもちょっと日本テニス協会を引っ張っているっていう自負がありました。海外に出ている選手が少なく、海外の情報が入ってこない時代でした。自分はヨーロッパに行き、ウィンブルドンでそういうのを生で見ている。住友軽金属の田中季雄社長がテニス協会の理事長だったので、世界の流れをいろいろご進講しなきゃいけないという思いはありました。70年にヨーロッパに遠征した時には、田中さんとともに国際ローンテニス連盟(当時)の会議にも出席しました。この時はデ杯のオープン化が議題になっている。ただ、デ杯のオープン化の問題は「対岸の火事」でした。日本では絶対にそんなことは許されないだろう、体協がある限りはダメだなと諦めていました。もっとも日本が世界の流れから取り残されていくんじゃないかというのはものすごく感じていましたね。
69年ぐらいからテニス協会に頼まれて、毎年秋に開催されていた朝日国際招待に外国選手を呼んでくる手伝いをしていました。ウィンブルドンの会場などで、航空運賃とかホテル代などのホスピタリティーは持つから日本に来ないか、という声のかけ方でしたね。結構、みんな興味を持ってくれました。声をかけたのは中堅の選手。今で言うなら世界ランクの50位前後の選手です。
ただ、朝日国際招待で来る選手は観光気分が抜けずあまり一生懸命やらないから、それにはちょっと怒りみたいなものも感じていました。やっぱり賞金をつけないと外国選手は真面目にはやらないなと。
一方で、来日した外国選手に日本選手が勝てば、名前の売れている誰それに勝ったという成績を自分の履歴に加えられるので、エクスペンスの額が上がる期待もありました。まだ世界ランクが整備されていない時代、海外の大会に出場する際に自分を売り込むための成績は大事でした。そういう意味で朝日招待は価値がありました。でも賞金を付けたら外国選手が一生懸命にやって、日本選手が勝てなくなるなという思いもありましたね。いろんな思いが頭の中で交錯していました。
72年のアジアテニス連盟総会で、日本を含めたアジア・サーキットの話題をだしましたが、構想自体はその4、5年前からありました。アジアで複数の大会を連続して開催すれば、海外の選手も来やすい。また、交通費などを複数の大会で分担すれば、開催費用も軽減できる。賞金大会で外国選手が真剣にプレーすればアジアのレベルアップにもつながる。
72年に声をかけた時にはいくつかの国が乗ってきたんですが、やっぱりお金がかかるので結局、日本とフィリピン、香港の3か所だけのサーキットになりました。その時はスポンサーを見つけるという発想はなかったので、優勝賞金は1500ドルくらいでした。
田中理事長もILTFの総会とかでオープン化が必要だというのを肌で感じておられたから、それじゃあオープン大会をやろうということになったんですが、体協がそこにいて、なかなか思うようにならなかった。「そんな大会をやりたいなら体協から出ていく覚悟はあるんだろうな」みたいなことを言われたりもしましたが、最終的には体協からOKがでた。妥協案として、賞金大会をやってもいいけど、日本の選手はアマチュアなんだから賞金を受け取らないということになったんです。
【第27回】ジャパンオープン誕生
<第1回のジャパンオープンは1972年10月、東京の田園コートで開催された。シングルス(32ドロー)には米国、豪州、インド、メキシコ、西ドイツ(当時)、韓国、香港から14人の外国勢が出場した。決勝は第1シードのM.エステップ(米国)を倒した坂井利郎(住友軽金属)とS.ボールを破った九鬼潤(法大)の日本勢対決となり、坂井が記念すべき第1回大会の優勝者となった>
第1回のジャパンオープンでは大会レフェリーを務めました。今でいえば大会ディレクターの役回りですね。朝日招待で海外の選手を呼んでくる役目をしていたので、ディレクター的な役割をジャパンオープンで果たせたんだと思います。最初に呼んできた顔ぶれは朝日招待の延長みたいな感じで、エステップだとか中堅クラスしか来てないですね。
渡辺功がアシスタントレフェリーで、2人で一生懸命大会を盛り上げようと、いろいろやりました。まだスポンサーはいませんでした。お客さんを喜ばせるために大会プログラムの購入者を対象に抽選会をしたり、これまでの大会には無かった企画を考え、集客の工夫をいろいろやりました。賞金総額1万ドルでしたが、大会は坂井と九鬼のシングルス決勝になりました。日本の選手はアマチュアで賞金を受け取れないので、優勝賞金1500ドルと準優勝賞金1000ドルが浮きました。この大会で協会が財政的に潤ったわけではありませんが、その後のサーキットにつなげるという意味では成功だったと思います。
<73年4月、デ杯で日本と対戦するために来日した豪州のウェイン・リード・テニス協会会長から、秋の東京から始まって11月上旬のシドニーで終了する「パシフィック・サーキット構想」を提案された。国際テニス連盟が主管するサーキットの一環で、日本庭球協会(当時)はこれを了承、これが「コマーシャル・ユニオン・グランプリ」の年間スケジュールに組み込まれた第2回ジャパンオープンにつながった>
その次の年にはもう国際テニス連盟のカレンダーの中に入れ込んでもらえましたから、選手の招へいをしなくても、ニューカム、ローズウォールというオーストラリアのトップ選手からエントリーがあった。その2人が来てくれるっていうんで、一気に大会のネームバリューは上がりました。
せっかく大会を日本でやるなら、アジア・サーキットとしてもう1大会作れという要請があって、73年は Osaka Open も作りました。大阪にはローズウォールやドライスデール(南ア)らが参加してくれました。でもあんまり観客が入らなかった。それと、選手がちょっと大会をなめてかかっていて、遅刻したことがありました。その時は毅然として遅れてきた選手に棄権通告をしたことが思い出に残ってますね。大阪は1回限りの開催であとが続きませんでした。
【第28回】「ワールドビッグテニス」の解説に
<渡邊は74年8月、デ杯監督を辞任した。選手兼任の時期を含めて4年間の監督生活だった。同時にジャパンオープン等の役職からも離れた>
監督を辞めると、職場は総務から営業に変わりました。1年間ぐらい営業の基礎を勉強して、銅のパイプを世界中に売りに歩き始めました。住友軽金属はアルミが主体になっていましたが、元々は銅が本業でした。アメリカ駐在を見込まれていた先輩に教えてもらいながらも海外出張を重ね、テニス協会からは少し離れましたね。都合がつくところだけ協会の会議などには出るような感じでした。
一方、80年からテレビ東京で「ワールドビッグテニス」の解説をやりました。テレビ東京が海外のツアーの映像を入手して、それを見ながらの解説です。それを不定期でやり始めて、81年からは週1回のレギュラー番組になりました。
<「ワールドビッグテニス」は81年4月に日曜の午後11時から30分番組としてレギュラー放送が始まった。番組では一つの試合を2回~3回に分けて放送した。88年4月に土曜午後6時に放送時間が変わると、90年10月からは日曜の午前7時30分に移り91年3月で終了した。10年間続いたこの番組は、テニスのTV放映が少なかった時代に根強いファンを持つ人気番組だった>
亡くなった藤吉次郎アナウンサーとやっていました。最初は不定期の番組だったので、暇を見てはやっていたのが、レギュラー番組になるとものすごく忙しくなった。30分番組ですけども、1試合を見ながら2回分を収録すると3時間はかかってしまうんです。業務の合間に収録はできないので、仕事が終わってからスタジオに行って、深夜まで収録していました。
解説をするためには事前に選手を調べていくんですが、これがなかなか時間がかかるんです。インターネットなんかない時代ですから。テレビ局が下調べしてくれるなんてことは一切なかったですね。これまでの成績がどうだったかとかを全部自分で調べました。国際テニス連盟から毎年でていた選手名鑑みたいなものや、テニス雑誌で紹介される選手の特集記事を調べて、それを頭の中入れて収録に行きました。
番組では、ナブラチロワ(米国)やコナーズ(米国)という大物のスタジオ・インタビューもやりました。緊張しましたが良い思い出ですね。コナーズに飛行機で移動する際にはどんなことに気をつけているのか聞いた時に彼が「飛行機に乗って一番大切なことは、一切飲み食いしないことだ」と答えたのは印象的でしたね。飛行機で飲み食いしないのは沢松和子も一緒だ! なんて思ったりしました。
その頃、夕刊フジで素人向けの「渡邊康二のDoテニス」という連載もやりました。これは毎日なんですが、担当記者に話をすると向こうが原稿にしてくれました。サーブのコツとかの技術解説です。評判が良かったのか悪かったのかは聞いていませんけど、一つのシリーズが終わると2カ月ほど休んで次のシリーズ。それを5回ぐらいやりました。
【第29回】日本テニス協会の強化委員長に
<1974年にデ杯監督を辞めた後、渡邊は日本テニス協会で常務理事、評議員を務めたが、仕事が多忙になって85年には協会の役職を離れた。89年には九州支店長となり東京から福岡に移っていた>
93年に転勤で東京に戻ってくると、すぐに南操二専務理事と宮城淳さんに呼び出されました。「戻ってきたのならテニス協会の仕事をやらないか」とのことでしたが、その時は出向先の住軽商事の支配人という役職で戻って来ていました。どんな仕事でどれくらい忙しいか分からなかったですが、強化委員長ならやってみたいという気持ちも強くあって、思い切って引き受けたんです。それがテニス協会へのカムバックでした。
それまでの強化委員会がどんなことしていたのか聞くと、あまり活発には活動してなかったということでした。それで月に1回はミーティングをすることにしました。毎月、土曜か日曜のどっちかに久我山にある朝日生命の施設内のナショナルトレーニングセンターに集まって意見交換する。2時間から3時間の会議を毎月やりましたね。それが強化の役に立ったかどうかはわかりませんけど、強化スタッフのコミュニケーションの場みたいなものです。その当時はナショナルトレーニングセンターには専属コーチという存在はまだ少なかったですね。
また、南専務理事からは協会の改革プロジェクトチームを作れと言われて、その座長を務めました。森清吉さん、中川暢行さん、内山勝さん、清水伸一さん、飯田藍さん、合瀬武久さん、磯部修一さん、小浦猛志さん、右近憲三さんがメンバーでした。協会の抱える課題をまとめて答申を出しました。2年ほどして第2次改革プロジェクトもやれと言われて、今度は右近さん、清水さん、内山さん、中川さんと、有澤三治さん、黒川光博さん、竹内映二さん、坂井利郎さん、福井烈さん、佐藤政廣さん、中嶋康博さん、植田実さん、中原かおりさんというメンバーで、2度目の答申もまとめました。
<JTA改革プロジェクトの答申は、「安定財源の確保」「経費節減」「マーケティングの強化」「イベント収益の改善」「組織の活性化」など多岐に渡る提言内容だった>
ただ、答申した内容は常務理事会で「やれるところからやる」という決議はあったものの、何も具体的進展はなく、結局はその課題を自分でやらなくちゃいけなくなるとは、その時は夢にも思いませんでしたね。
【第30回】日本テニス協会 専務理事に就任
<2000年6月、日本テニス協会は中牟田喜一郎会長が高齢などを理由に途中退任して、盛田正明氏が会長に就任した。その後、日本オリンピック委員会(JOC)加盟の11競技団体で、補助金、助成金の経理不正処理問題が指摘されて、日本テニス協会でも南専務理事が責任を取って11月に退任、同時に清水伸一事務局長も退任になった。協会はしばらく専務理事不在の時期が続いたが、01年4月に渡邊が後任の専務理事に就任した>
南専務理事、清水事務局長には本当にお気の毒な事でしたが、南さんが辞めた後は盛田さんが専務理事を兼務していました。盛田さんが後任の専務理事を探していて、私に白羽の矢が立った。南さんが専務理事を続けておられたら私のその後の人生はまったく別のストーリーだったと思います。
私は97年4月に協会の役職は全部やめて仕事に専念していました。専務理事の要請は唐突で、最初はとんでもないと思いました。それまで強化の仕事をやったことはありましたが、財務も人事も知らないので専務理事職はとてもできないと思ったんです。それまで盛田さんとはソニーライフカップの関係で数回お会いしたことはありましたが、ほとんど存じ上げてなかった。それが3回か4回呼び出されて話すうちに、盛田さんの人柄に魅了され、この人ならついて行ける、行きたいという思いから最後には「はい、わかりました」となりました。
でも子会社の役員で営業をやっていたので常勤はダメですと言ったら、常勤でなくてもいいからということになった。それから5年ほどして私が非常勤監査役になったら、すぐに盛田さんから「それじゃあ協会の方は常勤だ」と言われ、協会のオフィスに机と椅子を与えられました。最初は週4日と言われたんですが、週4日というのは実に中途半端でやりにくいんです。それで週5日行くようになりました。あの岸記念体育会館(当時)の夏の暑さだけは忘れられないですね。冷房が効かず蒸し風呂状態だったですけども、鈴木宏事務局長(当時)と隣り合わせに座りながらいろんなことを話して、コミュニケーションは非常に良かったと思います。おかげで問題が起こっても素早く対処できたことが大きなメリットでした。
【第31回】新制度の発足
<渡邊が専務理事になった2001年、日本テニス協会は財政問題を抱えていた。2000年度の決算は1億8000万円の赤字。5年連続の赤字決算となり次年度繰越金は3400万円まで減少していた。バブル経済が崩壊して不況となりスポンサー収入などは減少したが、バブル経済で拡大していた事業規模を変えることができずにずるずる改革を引き延ばしてきたのが原因だった>
協会は90年代にナショナルトレーニングセンター設置のために寄付を募って、企業などから数億円を集めたんです。それをどんどん使っていて、私が専務理事になる直前の2000年度決算は1億8000万円の赤字でした。このままこれまでと同じことをやっていたら今年度末で解散ということになりかねない時期でした。財政難が前提で就任したとは言うものの、会社時代に財務はやったことがないまったく素人で途方にくれたんですけども、とにかく経費節減だけはやらなければいけないと、人件費や日当の削減などいろいろ経費削減は進めました。ただ、そんなものではとても追いつかなかったですね。貧すれば鈍するで、対策は考えても実行する財源がなかったので何もできなかった。困り果てると、盛田さんに何度も高額の寄付をしていただいて、おかげで財政危機を何とか乗り切ったんです。
<91年から朝日生命久我山スポーツセンターの一部施設を年間契約で借りて開設していた日本テニス協会独自の「ナショナルトレーニングセンター」は01年度で閉鎖された>
年間で約5500万円かかるナショナルトレーニングセンター(トレセン)の廃止は、私が専務理事になる直前に決まりましたが、私もその協議には加わって話を進めました。その時にトレセンに代わるものとして、「ホームコーチ制度」というのを盛田さんと相談して決めました。トレセンがなくなると、選手が民間クラブでコーチと一緒にトレーニングするだろうという場面を想定して、それを援助しようというものです。しかしその後、国が東京・西が丘にナショナルトレーニングセンターを作るという構想がでてきて、テニスコート建設も含まれるということで、その計画にいろんな要望を出して実現に至り、その結果この制度は幸か不幸かあまり浸透しないまま終わりました。短期間だったと思いますが、そんなこともやりましたね。
「ホームコーチ制度」と並行して、飯田藍さんと一緒に作った「S級エリートコーチライセンス制度」も、協会独自のトレセンがなくなったので、コーチが海外遠征する選手に同行して指導するという趣旨で、日本人のツアーコーチを養成しようというものです。新たな制度を始めるには、そのための新たな資金が必要だったので、飯田さんと共にラケットメーカーとか企業を回ってお金を集めて、やっと第1回目の講習会をやりました。
テニス理論はもとより、語学やフィジカルなど多岐に渡る内容の講義を4日間受講してもらいました。松岡修造を指導した世界的コーチのボブ・ブレット(豪州)とかリチャード・ショーンボーン(チェコ)が英語で講義したりもして、かなり難しい内容でした。それで、最後にテストをして合格者だけが資格を獲得するんです。安くない受講料もかかったんですが、多くの指導者が受験してくれた。これが今でも続いているのはうれしいですね。でも、S級コーチのステイタスがまだまだ上がってこないのがちょっと残念ですね。
ボブ・ブレットと言えば、彼には2003年からデ杯の日本チームでスーパーバイザーになってもらいました。02年にデ杯監督だった神和住(純)が、自分の後任監督にボブを起用しようと言い出して、(松岡)修造も賛成したんです。ただ、調べてみると規定上、外国人はデ杯監督になれない。それで「それじゃあスーパーバイザーで」となりました。それでは後任監督はどうするとなって、メディアの注目を集めるための話題作りも狙って、その年の10月に「監督の公募」を発表しました。応募はありましたが適当な人材が見つからず、神和住が監督を続投しました。ボブは監督として表に出ることはなかったですが、チームにはかなり影響を与えてくれました。
【第32回】JTA改革プロジェクト
<渡邊は専務理事になると、座長を務めてまとめたJTA改革プロジェクト答申の実現にも努めた>
まず改革プロジェクトで提言した組織改革に手をつけました。その当時、日本テニス協会と関東、関西など9地域テニス協会、都道府県テニス協会はそれぞれ独立した任意団体で個別に活動していました。例えば9地域と都道府県の協会に連絡することがあって、それを9地域協会に伝えても、その内容が47都道県の協会には下りて行かない。それぞれが別個の組織ですから。これを地域協会に連絡すると、各都道府県にも伝わる血の通う全国組織にしたかったんです。
それで地域と都道府県協会の組織上の位置づけを明確にして、都道府県協会が日本テニス協会の意思決定により直接的に参画できるようにする。また各種登録を地域協会に移管して、登録者を増やして登録料の増収を図ってもらう。各地域で開催される大会の公認料も受け取りを当該の地域協会にする。一方で地域協会から日本テニス協会が受け取っていた分担金については増額をお願いしました。
これに対しては各地域協会から非常に強い反発があがりました。それで盛田さんと一緒に地域協会などを一度ならず回りました。その甲斐あって、皆さんも何とか理解してくれるようになったんです。
<日本テニス協会が主催する男女ツアーのジャパンオープンは1996年の4万5000人をピークに観客数が減少、99年と2000年は2万人台と低迷した。しかし01年からは観客数は増加に転じ、07年には7万5000人を超えた>
協会の財政面で一番大きかったのは、ジャパンオープンの観客が増えて協会収入の柱になったことですね。それまでは、大会自体は赤字ではないけどもそれほどの収益はあげられてなかった。スポンサーもそんなにお金を出してくれない時代でした。でも2001年にAIGがスポンサーについてから良くなったんです。その時はIMGジャパンが手伝ってくれました。スポンサーを探していろんなところを回りプレゼンテーションをしてくれた。我々も同行してスポンサーとは親しくなりました。当時、錦糸町にあったAIGのオフィスには足しげく通いました。
その頃はマリア・シャラボワ(ロシア)が一躍スターになった時期でした。シャラポワはなぜか日本が大好きでジャパンオープン・ジュニアにも出場していて、ちょうど私が観戦した02年のシングルス決勝で謝淑薇(中華台北)に負けてるんですが、その後もたびたび日本に来てくれました。ジャパンオープンでは03年、04年と2連覇しています。06年にはロジャー・フェデラー(スイス)が出場してくれました。いい選手が出場するとチケットが売れ始めました。
盛田さんは世界各国の大会をよくご覧になっていて、「海外の大会にはテントの中で飲食できる『マーキー』がある。それをジャパンオープンでも作れ」と指示された。ジャパンオープンを、試合の合間にはお酒を飲んで楽しむフェスティバルに変えるんだ、ということですね。盛田さんのアイデアはいろいろ生かされました。マーキーは最初、スポンサー向けのサービスでしたが、それを入場券とのセットにして高額チケットの販売にもつなげました。テニスグッズの販売テントも増やしました。それも人気を博しましたね。盛田さんのアイデアを次々と具現化してくれる素晴らしい人材が、周りにたくさんいてくれたことも幸運でした。
日本選手が実力を上げていったのも良かった。07年のジャパンオープンに初めて出場した錦織圭が強くなったのはラッキーでしたね。外国選手だけだったらあんなにお客さん来なかったと思うんです。錦織とかそういう日本選手の活躍でチケットの売れ行きが良くなった。ジャパンオープンの観客数は年ごとに増えていって、協会財政を支えてくれたから、財務も回り始めたという感じです。ジャパンオープンは私が大会ディレクターとして1972年に始めた大会ですが、始めた頃にはこんな姿になるとは想像だにしていませんでしたね。
【第33回】新たな拠点、味の素ナショナルトレーニングセンター
<朝日生命久我山スポーツセンターに間借りしていた「ナショナルトレーニングセンター」を2001年度で閉鎖した日本テニス協会だが、国立施設として「味の素ナショナルトレーニングセンター」が08年、東京・西が丘に完成した。ハード2面、アンツーカー2面を備えたインドア施設は新たな強化拠点となった>
最初の計画は2面だけがハードで、並んだ2面は砂入り人工芝でした。それで何度も日本オリンピック委員会なんかと話し合いました。かなりもめたんですが、「砂入り人工芝はないでしょう」と強く言って、それを全仏のローランギャロスと同じアンツーカーに替えてもらいました。室内の設備も、太陽が真上にきて目に入るときのサーブを想定して練習できる照明などすごく良いものができました。
ナショナルトレーニングセンターが完成した時には、ここでの強化活動を支える財源ねん出のために「ワンコイン制度」を始めました。これも地方から反発が強かったですね。日本テニス協会、地域協会、都道府県協会が主催する各種大会などで、出場選手からシングルスで1人100円、ダブルスだと1組100円、団体戦なら1チーム500円を“寄付”してもらう制度ですが、地方からは「そんなものを集めたらエントリーが減る」「集める手間が大変だし、日本協会に送るのも大変だ」などという声があがった。この時も説得するために全国を行脚して回りました。
<日本テニス協会は、シングルスで世界ランク10位以内なら300万円、ダブルス世界10位以内なら150万円など、選手の世界ランキングに応じて支払う報奨金制度を2003年に始めた。この制度は08年まで続けられた>
それまでもオリンピックやアジア大会のメダル獲得で支給する制度はありましたが、世界ランキングに応じた年間報奨金制度を新設しました。さらにデ杯、ビリー・ジーン・キング(BJK)杯や全日本選手権に出場して欲しいので、「国別対抗戦の代表を拒否しないのが前提で、代表はジャパンオープンか全日本選手権に出場した選手」などの条件をつけました。
そのころの報奨金は、オリンピックの金メダルは2000万円、銀メダルは1000万円、銅メダルは500万円となっていたんです。2004年のアテネ五輪で、浅越しのぶ/杉山愛の女子ダブルスが準決勝まで勝ち上がった時には、金メダルだったら報奨金の2000万円をどうやってひねり出そうかと、盛田さんと二人青くなりました。浅越/杉山は残念ながらメダルを逃しましたが、日本選手がオリンピックのメダル争いに絡むだけの実力をつけてきたことを改めて実感しましたね。金メダル2000万円というのはほかの競技団体と比べても高額だったので、メダルの可能性が現実的になったから下げようとなって、金メダル800万円などと全体を引き下げました。マスコミからは冷笑されましたが、背に腹は代えられませんでした。
代表クラスの選手は、ナショナルトレーニングセンターで、ナショナルスタッフの手も借りて無償で練習しているんです。だから、それを当然みたいな感じでやるのではなくて、それに感謝の気持ちを感じて、国別対抗戦には出る。全日本選手権もランキングポイントはつかないけど、日本でのテニス人気を上げるお祭りだから出ようかっていう気持ちになって欲しかったですね。
国別対抗戦と全日本選手権が盛んにならないとテニスの底辺が広がらないし、競技人口も増えない。アメリカのIMGアカデミーに行ったような選手だけが強くなっているというのも、ちょっといびつな形だろうと思うんです。国内の高校生、大学生からも強い選手が出てきて欲しい。そういう意味で、テニス人口を広げるには全日本選手権と国別対抗戦しかない、そう思ったんです。
【第34回】日本テニスへの思い
<渡邊は専務理事を5期10年務めて2011年に退任した>
10年やったらもういいだろうと考えて辞めたんですけど、正解でしたね。10年以上やっていたら、「いい加減に辞めないか」なんて言われそうだし、やはり弊害の方が出てきますね。
デ杯の監督もそういう意味では、4、5年がいいところですね。それより長くやるとやっぱり新鮮味が消え惰性の弊害の方が多くなる。私がデ杯監督に任命した人については、「もうそろそろ後進に譲ってくれ」と言って、辞めてもらうところまで責任もってやりました。
試合の関係で大学の卒業式にも会社の入社式にも出ていない区切りのない社会人のスタートで、テニス協会ともつかず離れずに過ごしてきて、仕事をしてきたのかテニスに生きてきたのか、よくわからないなという思いはありました。でも、最後に盛田さんと巡り会えたのは大きくて、それがなかったらエキサイティングな人生ではなかったと確信をもって言うことができます。テニス協会から一度離れたところを盛田さんに声をかけていただいて、それでテニス協会と再びつながった。そこは非常に大きいですね。それで今の人生が振り返られる。
でも思ったことはできていませんね、なかなか。デ杯、BJK杯や全日本選手権に選手が喜んで出てくれる仕組みを作りたかったけども、それが作れていない。サッカーなんかを見てると、外国でプレーしている選手を代表に呼び戻すときはちゃんと呼び戻す。そういう協会の要望に応じてくれる選手を作りたいというようなのが理想にはありましたからね。その代わり、協会も選手のことをよく考えてあげないといけない。普段はほったらかしておいて、協会の都合で「このデ杯に出ろ」とか「なんで全日本に出ないんだ」というのはダメだし、双方の意思の通うテニス界にしておきたかった。協会の強化部門と選手との密接な関係というのはほんとに作りたかったですね。
盛田さんと私くらい代表チームのアウエーの対戦に同行した会長と専務理事は歴代でもいなかったと思います。盛田さんはフェドカップ(当時)に同行して、私はデ杯にほとんど行った。そうやって現場を全部見てきました。政情不安で渡航危険といわれる国々にも出かけましたし、やっぱり選手がどれだけ現地で苦労しているか、必死の思いでやっているかをしっかり見届けるのはトップとしての義務だと考えて、盛田会長がフェドカップで私はデ杯という分担を作っていたんです。現地に行くとレセプションでスピーチをしなきゃいけない、偉い人と会食もしなければいけないとかストレスも多いんですけど、やっぱり現地で見るというのはものすごく迫力が違うんですね。これで選手たちとの距離をだいぶ縮められたんじゃないかとは思います。
私の現役時代と今とでは、まったく世界が変わりました。私の頃は代表選考会とかも戦って大変な思いもしてデ杯選手を目指しました。それだけに代表になったらものすごくうれしかったし誇りに感じていました。今は選手に代表選手になることの意義を伝えきれていない、選手も少し自分本位になっていないかなという部分もあると思うんです。ナショナルトレーニングセンターは個人のランキングを上げるために存在しているのではないことを選手には理解して欲しいし、協会と選手とファンが一体になってはじめて日本のテニスに活気が出て、メジャースポーツの仲間入りができるんじゃないかな。(おわり)
(敬称略、所属は当時)