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岡留 恒健さん

[1956 カルカッタでの招待試合]

[写真]

徹底的に物事を追求し、夢を実現させる意志の強い人だ。中学3年でラケットを握り、6年後にはデ杯選手になった。地上職で入社した日本航空でパイロットを志望し、6年後には世界の空を飛んでいた。46歳で山登りを始め、6年後にはエベレストに挑んだ||。「何事も寝食を忘れるほど打ち込めば、6年くらいで達人の域に達するのではないでしょうか」。自らの挑戦を誇らしげに語るわけでもなく、むしろ淡々としている。

パイロットの傍ら、ユニセフ(国連児童基金)の支援活動にも尽力したが、その原点は慶応大学4年の時、遠征先のインドで目にした貧富の差だったという。「私の南北問題初体験」と語るインドでの招待試合こそが、その後の岡留恒健さんの人生に大きな影響を与える第一歩となった。

デ杯・セイロン戦でフェルディナンドにフルセットで勝利を収める

1956年(昭和31年)12月、岡留さんは当時関西学院大4年の柴田善久さんとともにインドのカルカッタで行われた招待試合に参加した。同年の全日本学生(インカレ)で岡留さんが優勝、柴田さんが準優勝しており、学生のトップ選手として日本テニス協会から派遣された。

初めての海外。そこで見た光景に衝撃を受けたという。「上流階級の人が優雅にテニスをしている一方、ホテルの周辺では浮浪者が飢えをあらわにしていました。そのうちの一人が翌朝冷たくなっていたりする。カルカッタのテニスコートは大変素晴らしく、豪華な晩餐会も開かれたので、落差がなおさら強く感じられました。この経験が頭に残り、後のユニセフの活動につながりました」。

試合では初めて体験する芝コートに戸惑った。初日の練習で柴田さんと2人でラリーをしようとしたが、前に飛ばない。ボールが低くバウンドして滑るので、振り遅れて隣のコートに飛んでしまうのだ。これに慌てたのがインドのテニス協会だった。「せっかく招待したのに、簡単に負けてもらっては困ると思ったんでしょう」。


1956年デビスカップチームメンバー
(左から宮城淳さん、岡留さん、松岡功さん、
加茂公成さん)
※松岡功さんは松岡修造さんの父

だが、すぐに慣れて順調に勝ち進み、3代に渡るデ杯選手を相手にした。まずは次代のデ杯候補として期待されていたラルと対戦。それまでの相手と違い、長身から繰り出すサーブの威力に手こずったが、4セットで降した。準々決勝は元デ杯選手のミスラ。彼も2メートル近い長身の選手で、サーブは上からボールが落ちてくるようだった。ベースラインで構えていては相手のサーブアンドボレーに仕留められてしまうので、サービスライン付近に立って返球した。これなら相手がネットに詰めてくる前にリターンできる。9-7、7-5、10-8。これで力尽きた。暑さと疲労で熱が出てしまい、クマールとの準決勝はふらふらだった。それでも第1セットを必死に奪った。「負けはしましたが、根性は伝わったみたい。翌日の新聞に『日本人のすごいところはあの根性だ。インド人も見習わなければいけない』と書かれました」。


根性は子供のころから人一倍あった。その熱の入れようは半端ではない。思い描いた夢が実現するまで努力するのだ。中学3年の時、地元・福岡で国体が開催され、全日本チャンピオンの隈丸次郎さんや中野文照さん、中牟田純子さんらのプレーを目にした。「その頃は陸上をやっていたんですが、たまたまテニスを観て面白そうだと思って始めたんです」。

国体会場に使われた「福岡クラブ」に入会。来た人に片っ端から声を掛け、勝つまで何度でも試合を申し込んだ。後に日本テニス協会会長を務める中牟田喜一郎さんもいた。「来るのが遅いと『遅いよおじちゃん』って怒っていました(笑)偉い人だなんて知らなかったから」。

平日は学校が終わると飛んでいき、土日は一日中コートにいた。台風の日も雨が一時止んだ合間にラケットを振った。「法政大をスパルタ教育で強くした名コーチの松本武雄さんもいたんですが、『休憩しろ。やり過ぎだ』って注意されました。スパルタコーチから見てもやり過ぎだったようです(笑)」。

だが、学業優先の考えを持っていた医者の父親の理解は得られなかった。「勘当され、親類宅に居候しながら高校に通いました。高校2年の時、高校総体のダブルスで優勝したけど、黙っていました。恐ろしくてとても言い出せなかった」。


1957年デビスカップチームメンバー(左から松浦督さん、加茂公成さん、隈丸監督、岡留さん、宮城淳さん)

1957年デビスカップチームメンバー
(左から松浦督さん、加茂公成さん、
隈丸監督、岡留さん、宮城淳さん)

高校3年で単複団体と三冠を制覇し、初めて報告に行った。「さすがに喜んでくれると思って優勝旗を抱えて訪ねて行くと、玄関払いされた。そりゃあがっかりしましたよ。一度ダメだと反対したから、メンツの問題かもしれませんが……」。

53年に慶応大学に入学。「思う存分テニスができる」と心躍らせて上京したが、体育会になじめず、テニスへの情熱が急激に薄れた。56年と57年にデ杯代表に選ばれたが、「テニスはこれで終わり、という思いでした」。


地上職で入社した日本航空では、東京駅八重洲口のカウンターで切符販売を担当した。その後、体験搭乗させてもらったのをきっかけに操縦士になりたくなった。「デ杯選手」というテニスにおける最高の目標を達成し、虚脱感のあった岡留さんに次なる目標が現れた。自家用操縦士免許と無線通信士免許を取得。連日、会社に「操縦士にしてほしい」と申し入れた。当時は地上職と運航乗務部がはっきり区別されており、無謀な願いだったが、27歳で配置転換が叶い、パイロットの訓練を受けることになった。「『うるさくてたまらないからやらせてしまえ』と会社も音を上げたんでしょう。今の若い人は淡泊ですぐにあきらめてしまうようですが、何とかなるものです」。


エベレスト登頂

エベレスト登頂

副操縦士になってからは、一刻も早く機長になりたいと思った。機長になるための飛行時間(3000時間)をかせぐため、休みの日も家で待機し、乗員に空きがあったら乗務した。機長になってからは国際線の南回りを担当。今度はスキーにとりつかれた。飛行機から降りるとそのままスキー場に行く生活を送り、46歳で登山を始めた。山と地球環境へのメッセージをつづった『機長の空からの便り』(山と渓谷社)に詳しいが、山登りも徹底している。仕事の傍ら登山学校に通い、ついに6年後にエベレストに挑戦した。


コックピットを訪れた、オードリー・ヘップバーンさんと

南回りを担当し、貧しい国々を多く目にしてきた。空から地球を眺め、自分の足で山々を踏みしめてきた岡留さんが地球環境への関心を持つのは自然だった。学生時代、インドで感じた問題意識をユニセフ支援という形で実行に移した。まだユニセフの認知度が低かった約25年前、岡留さんは社内に働きかけ、約8年越しで日航機の全機にユニセフマークを付けた。日本ユニセフ評議員も務め、定年後もボランティア活動を続けた。

テニス、機長、エベレスト登山、ユニセフ支援。「思い続けていれば、いつかそれが実現する」というのが、常に高い峰を目指し、それを制覇してきた岡留さんの信念である。


【取材日2003年1月5日】ご自宅にて
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
岡留 恒健さん

プロフィール

岡留 恒健 (おかどめ・こうけん)

  • 1934年5月7日生まれ
  • 福岡県福岡市出身。
  • 慶應義塾大法学部卒業
  • 日本航空の国際線機長を務め、日本ユニセフ協会評議員として支援活動に尽力。

主な戦績

  • 福岡高3年で高校総体三冠、
  • 慶応大4年で全日本学生優勝。
  • 1956、57年デ杯代表。

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