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フェデレーションカップの時代~日本女子テニス成長の歩み~

フェデレーションカップの時代~日本女子テニス成長の歩み~

1 初参加は1964年、第2回大会
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ようやく海外旅行が完全自由化され、女子選手にも海外派遣の機会が広げられた1964年、日本チームが第2回フェデレーションカップ(フィラデルフィア大会)に参加することとなりました。

1950年代に加茂幸子選手がアジアや欧米に派遣されてはいましたが、宮城黎子、小幡陽子、黒松和子の各選手にとってはアジア圏内を離れて初めての渡米です。

大会での日本チームは、南アフリカとの1回戦、芝コートの凸凹にとまどっているうちに0-3で敗退したものの、米国遠征ではビリー・ジーン・モフィット(のちのキング夫人)、マーガレット・スミス(のちのコート夫人)、マリア・ブエノらトップ選手のプレーに接することができました。

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初参加日本チームの選手。左から、小幡陽子、黒松和子、宮城黎子

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宮城選手らは全米選手権にも出場。左は、対戦したビリー・ジーン・モフィット(当時20才)選手

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会場となった名門ジャーマンタウン・クリケットクラブ(フィラデルフィア)のセンターコート
2 世界に羽ばたくエース、沢松和子の成長
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1966年から69年まで、日本チームはフェデレーションカップに参加していません。この間に世界テニス界はオープン化され、激動の時代を迎えていました。国内では1968年春に「女子庭球の発展を目的」とする女子庭球連盟(幹事長:桑名寿枝子、副幹事長:井上早苗、宮城黎子。現在の日本女子テニス連盟)が結成され、女子選手を応援する体制ができてきました。

この変革期、果敢に海外へ飛び出して実力をつけていたのが沢松順子、和子姉妹です。沢松和子選手は再結成されたフェデレーションカップ日本チームのエースとして、1970年から75年までの間にコンソレ優勝5回を果たしました。また1975年にはウィンブルドン女子ダブルスで優勝し、テニスブームの原動力となりました。

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1972年にもコンソレ優勝した日本チーム。左から、三町正治監督、沢松、畠中君代、佐藤直子選手

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1973年公式ブレザー姿の日本チーム。左から、後藤秀子、福岡加余子、畠中、沢松選手、吉岡利治監督

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1973年公式ジャージ姿の日本チーム。左から、畠中、沢松、福岡加余子、後藤秀子選手

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1973年大会でグーラゴン選手と対戦した沢松和子選手のプレー

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1973年大会で優勝したオーストラリア・チームの大黒柱イボンヌ・グーラゴン選手
3 1981年、念願のフェデレーションカップ日本開催が実現
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女子テニスの祭典「フェデレーションカップ」を日本でも開催したいという長年の熱意が実り、1981年11月、第19回大会が東京・多摩川園ラケットクラブで開催されました。

前年には、テニスの国際性に着目していたNEC日本電気(株)がフェデレーションカップ、そしてデ杯のスポンサーとなっています。

アジアで初開催となる1981年大会には32ヵ国の代表が集まり、連日1万人の観客を集めて行われました。名誉総裁常陸宮妃殿下を迎えての華やかな式典、日本女子テニス連盟の支援ネットワークなど、様々な力が結集して大会基盤も固められています。

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組合せ抽選会会場

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開会式に入場する日本チーム(左から、宮城黎子監督、米沢そのえコーチ、古橋富美子、野村貴洋子、柳昌子選手)

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華やかな開会式の模様

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センターコートの熱戦を見守る観客

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1回戦で対戦する西ドイツのリドル選手と柳選手

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左、柳昌子選手。右が西ドイツのリドル選手

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1回戦で対戦する西ドイツのバンジ選手と野村選手

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左、野村貴洋子選手。右が西ドイツのバンジ選手

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エンド交代時に選手を励ます両監督。左側が日本チームと宮城監督

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決勝戦アメリカ対イギリスのダブルス

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エンド交代時に両選手を励ますアメリカチーム・リーダーのエバート選手

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表彰式でカップを授与される大会名誉総裁常陸宮妃殿下とシャトリエITF会長

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司会のテッド・ティンリン(斬新なテニスウエア・デザイナーとしても著名)

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優勝したアメリカ・チーム。ユニフォーム姿の左から、イェーガー、カザルス、エバート、ジョーダン選手と小坂JTA会長(左から2人目)
4 華やかに競うファッションにチームの個性
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国を代表する選手たちが一都市に集まるフェデレーションカップは、国際親善の場でもあります。1984年サンパウロ大会開会式でも、各チームが趣向をこらした公式ウェア(式典用服装)のファッションコンテストが行われました。

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アイルランド・チーム

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フランス・チーム

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イギリス・チーム

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オランダ・チーム

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チェコスロバキア・チーム

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スウェーデン・チーム

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ブルガリア・チーム

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ソ連チーム

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メキシコ・チーム

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中国チーム

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韓国チーム

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日本チーム。左から、九鬼潤コーチ、雉子牟田明子、岡川恵美子、井上悦子、柳昌子選手、本井満監督
5 1985年は名古屋グリーン、1989年は有明テニスの森で祭典
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1981年東京大会のあとも、1985年第23回大会が豊田市の名古屋グリーンテニスクラブで開催され、史上最多タイ記録となる38ヵ国が実力を競いました。東海地域テニス関係者が一致団結して準備にあたり、温かい歓迎とスムースな運営に賛辞がおくられています。

日本開催3回目となる1989年第27回大会では、アメリカ、西ドイツ、チェコなどベストメンバーを組んだ40カ国が東京の有明コロシアム・有明テニスの森公園に参集し、日本のテニスファンを魅了しました。引退を決意していたクリス・エバート選手属するアメリカ・チームが優勝し、日本でも人気のエバート選手最後の国際公式戦として記憶されています。

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1981年東京大会を記念して、JTAからITFに寄贈された大会旗

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1985年名古屋大会プログラム表紙

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1985年名古屋大会 開会式の模様

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1987年バンクーバー大会での日本チーム。左から、内山勝監督、柳昌子、井上悦子、雉子牟田明子、岡川恵美子選手、柴田八郎コーチ

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1989年東京大会プログラム表紙

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1989年東京大会 開会式の模様

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1989年日本チーム。左から、内山勝監督、宮城ナナ、伊達公子、雉子牟田明子、井上悦子選手、小浦猛志コーチ

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1989年東京大会で優勝したアメリカ・チーム。左から、シュライバー、エバート、ナブラチロワ、ガリクソン選手とそしてコーチのマーティー・リーセン
6 1994年、悲願のベスト8を達成し、ワールドグループ入りを決める
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第32回となるフランクフルト大会は、本戦32チームによるトーナメント方式としては最後の大会でした。翌年から始まるグループ別方式(デ杯と同じ)でのワールドグループ(上位8チーム)入りを決める大会です。

過去26回の参加中12回も2回戦の壁を越えられなかった日本チームは悔しさをバネにし、苦戦しながらも1回戦で中国、2回戦でスウェーデンを破ってベスト8に進出しました。

かくて1995年から始まる新制度ではワールドグループに入り、世界のトップ8として新たなスタートを切ることになります。世界の女子テニス界も新しい時代を迎えていました。

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公式ウェア姿の1994年日本チーム。左から、丸山淳一コーチ、宮城ナナ選手、遠藤愛選手、柳昌子監督、伊達公子選手、沢松奈生子選手、竹田康成トレーナー

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日本チームのエースとして活躍した伊達選手

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JTA本井満常務理事(左端)と公式ユニフォーム姿の日本チーム。左から、丸山コーチ、伊達、宮城、遠藤、沢松(奈)の各選手、竹田トレーナー、柳監督

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