明治のテニス・ラケット物語
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明治20年代、ローンテニスは各学校の中で、徐々に普及していった。1888(明治21)年10月、全寮制だった高等師範学校の舎監を兼務することになった坪井が、寄宿生たちの健康維持のためにローンテニスを推奨していたようすは、回想記などにうかがわれる。
1890(明治23)年に成立した第一高等中学校校友会では、文芸部、陸上運動部、柔道部、ボート部、撃剣部、弓術部、ベースボール部、遠足部とともにローンテニス部が活動している。部の規則には、入会時にゴム球(中形)3個の納付が義務づけられていた。遊戯に使用する器具は大切に取扱い、終了後は一定の場所に保管することという注意書きもある。ボールも、ラケットも共有物であったようだ。
同年に開催された第三回内国勧業博覧会には、神田区猿楽町二丁目の「伊藤卓夫」から教育用品として「ロンテニス」が出品された。別の品名に「ベースボール」と「ベースボール用球」と区別してあることからみて、単に「ロンテニス」と記載されている場合はセット一式と推測してよいと思われる。
また、浅草区新平右衛門町の「寺本善三郎」からも「ロンテンスバット教育体操器」が出品されていた。初期のローンテニスではラケットのことをバットとも呼んでいたから、おそらくこの時期には日本でも、商品としてのラケットが製作されていたことは間違いない。
【図4:《運動界》誌1899(明治32)年7月発行に掲載された美満津商店の広告。右下のカバーされているテニスボールは、一部の倶楽部などで使われていた。左下には箱入りローンテニス一組の図もある。しかし、一般の庭球ではゴム球が主流だった】
1894(明治27)年、ベースボールが野球と訳されると同時に、ローンテニスは庭球と訳された。そして庭球では初めての対校試合が、1898(明治31)年、高等師範学校と高等商業学校(現、一橋大学)の間で行われた。
この試合の模様は、日本初の本格的スポーツ誌《運動界》の第3巻第1号(1899年1月発行)に掲載された。「庭球(ロンテニス)」の連載も同じ号から始まっている。連載第2回には「打球網」の図が挿入されていて、庭球を知らない人から魚を捕る網と間違われたなどのエピソードとともに、和製ラケットの製造方法が説明してある。当時の日本では、フレームはケヤキまたはムクノキを曲げて作り、ガットは鯨、鹿、または牛の筋でこしらえていたということだ。別の文献には、小学校で籐や板の手製ラケットを使っていたことや、ガットに弓の弦、絹糸などを使っていたことなどの記載もあった。
この《運動界》誌連載記事挿絵は、同誌に掲載されている美満津商店の広告【図4】に出ているラケットと同形だった。1882(明治15)年創業の美満津商店経営者・伊東卓夫は、先の第三回内国勧業博覧会出品者「伊藤卓夫」と同一人物と断定してよいだろう。伊東は運動具製造販売業の草分けであり、スポーツの啓蒙者だった。青井鉞男著『ローンテニス』(1899年刊)も美満津商店から出版されている。