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ジャパンオープン前史~デ杯が育てた日本テニスの結束力~

ジャパンオープン前史~デ杯が育てた日本テニスの結束力~

6 1956年、インドも東洋ゾーン参加
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デ杯選手強化のため、日本庭球協会は1956年2月に国内デ杯強化対策委員会を設置し、候補選手として宮城淳、加茂公成、高山雄次、吉村義郎、松岡功、柴田善久、伊藤真、石黒修を選びました。

この年、東洋ゾーンに参加したのはインド、セイロン(現、スリランカ)、日本です。5月、田園コロシアムに強豪インドを迎えた原田武一監督は経験豊かな宮城、加茂を起用しましたが、インドを崩すことはできませんでした。日本チームは、この後も長く「インドの壁」に阻まれることになります。

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田園コロシアムへの案内看板

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ニュースカメラの列

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田園コロシアム会場入り口の混雑

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インドの大黒柱クリシュナン選手

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シングルスで2勝した加茂選手と試合後のクマール選手

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ダブルスの宮城/加茂組(手前)対クリシュナン/クマール組
7 東洋ゾーンの壁の前で一進一退
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1957年は、東京でセイロン(現、スリランカ)に完勝しますが、マニラでフィリピンに惜敗します

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田園コロシアムでの開会式で花束贈呈を受けるセイロンと日本チーム

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マニラに向かう日本チーム。左から、宮城、松浦督、加茂、岡留恒健の各選手と隈丸次郎監督

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対フィリピン戦第5試合シングルで攻める石黒修選手

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石黒修選手勝利の瞬間

1965年は東洋ゾーンAセクションでフィリピン、韓国に快勝するも、東洋ゾーン決勝ではまたもインドに阻まれます。しかし、石黒/渡辺康二組はダブルスで一矢を報いました。

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対インド・ダブルス戦のスコアボード

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対インド・ダブルス戦、笑顔で引き上げる石黒選手(前)と渡辺康二選手

1967年は、ジャカルタでインドネシア、東京でフィリピンを破りましたが、ニューデリーでの東洋ゾーン決勝ではインドに敗れました。

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フィリピンのデイロ/アン・ジュアン組に対する渡辺功(左)渡辺康二組

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試合後、放送席で、太田監督とともにインタビューを受ける両選手
8 1968年、世界の潮流はオープン化へ
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国際庭球連盟がプロ選手の大会参加を主催者の判断に委ねたのは、1968年でした。6月、渡辺康二、渡辺功、沢松順子、沢松和子選手もオープン化されたウィンブルドン大会に参加し、渡辺康二、沢松和子選手は本選で世界のトップ選手と対戦しています。

9月、東京での東洋ゾーン決勝でインドに対した渡辺両選手は、柳恵誌郎選手とともに善戦しましたが1-4で敗退しました。

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1968年インド対日本のプログラム表紙

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第2試合シングルスのエンド交代時、柳選手とラル選手

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第5試合でラル選手に対する渡辺康二選手(手前)
9 1971年、50年ぶりにオーストラリアを破る
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デ杯がオープン化される以前、選手のプロ化が進んでいたオーストラリアは代表チーム編成が難しくなり、1970年からは東洋ゾーンに参加することにします。

迎え撃つ日本チームは、新しく就任した渡辺康二監督のもと、コーチ:渡辺功、選手:柳恵誌郎、河盛純造、小浦猛志、九鬼潤、神和住純、坂井利郎で編成されます。メンバーはともに海外派遣で切磋琢磨し、見聞を広め、結束を固めてきた仲間でした。

1971年4月、東洋ゾーンAセクション決勝、渡辺監督はシングルスに柳、坂井を起用して幸先の良い2勝をあげますが、次のダブルス、シングルスを落として2勝2敗になります。最終試合は日没中断をはさみ、終始冷静な判断とオールラウンドな試合運びで坂井がクーパーを破りました。対オーストラリア戦勝利はデ杯初参加の1921年以来で、50年ぶりのことでした。

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1971年、対オーストラリア、日本の勝利を決めた坂井利郎選手と歓びの日本チーム

つづく5月、インドとの東洋ゾーン決勝では柳がラルを破り、坂井・神和住組もフルセットの善戦で田園コロシアムの観客を魅了しましたが、またもインドの壁を超えることはできませんでした。

10 新時代の幕開け、ジャパンオープンの誕生
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日本と世界との距離は縮まったかにみえましたが、1972年の東洋ゾーンAセクション決勝では、オーストラリアに雪辱されてしまいした。

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田園コロシアムの熱気を伝えるモダンテニス誌1972年6月号の表紙

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オーストラリア戦ダブルスの模様を伝える同誌のページ。左上円内は、来場された皇太子殿下(現、天皇陛下)ご夫妻

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田園コロシアムの観客席

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1972年、対オーストラリア、開会式の模様

1973年には、デ杯もオープン化されます。オーストラリアは、トップ・プロ選手J.ニューカムを柱としたチーム編成で、日本、インドを破り東洋ゾーンで優勝します。インターゾーンではR.レーバー、K.ローズウォールも加わる豪華なチーム編成で、米国を5-0で破って6年ぶりにデ杯を獲得しました。

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第2試合でニューカムに善戦する神和住純選手

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第2試合でエンドの交代時に選手を励ます渡辺康二監督とJ.フレーザー監督

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ニューカムのポーチに対する坂井/神和住組

世界テニスの潮流を敏感に感じていた新旧デ杯選手たちの期待に応え、日本庭球協会がリーダー役となって、香港、フィリピンと協同でアジア・サーキットを設立したのは1972年でした。日本では従来の朝日国際招待大会を発展的に解消し、新たな「ジャパンオープン(国際テニス選手権)」としてスタートします。翌年にはコマーシャルユニオン・グランプリ・シリーズの一環(賞金付、公式戦)として、10月第1週にOSAKA OPEN '73(賞金総額$25,000)が靫テニスコートで、第2週にJAPAN OPEN '73(賞金総額$60,000) が田園テニスコートで開催されました。

世界トップ選手たちの真剣な勝負が見られるジャパンオープンは、日本のテニスファンを魅了し、次代のデ杯選手を目指す若い芽が育ってゆくチャンスの場にもなってゆきます。

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第1回ジャパンオープン・プログラムの表紙

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第2回ジャパンオープン・プログラムの表紙
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