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第3章 戦時色から新たな時代へ【1937(昭和12)年~1954(昭和29)年】

第3章 戦時色から新たな時代へ【1937(昭和12)年~1954(昭和29)年】

1 友邦ドイツから派遣、クラム、ヘンケルの勇姿
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日独防共協定が調印された翌1937年10月、日本庭球協会の招待で、ドイツからゴットフリート・フォン・クラム(世界2位)、ヘンナー・ヘンケル(世界3位)、女子選手マリー・L・ホルン(世界8位)、そしてクラインシュロット監督が来日し、新装なった甲子園国際庭球倶楽部センターコート、名古屋七本松コート、田園倶楽部コート、そして福岡春日原コートで日独交歓対抗戦が行われました。

甲子園、名古屋、福岡での試合は3セットマッチで、日本側は原田武一、布井良助、山岸二郎らに地元選手を加えたものでした。しかし田園倶楽部の試合では山岸二郎、中野文照が代表となり、デ杯式に単4、複1試合を5セットマッチで行いました。デ杯の強豪ドイツは、甲子園で4-1、田園で3-2の勝利をおさめています。

またドイツ選手団は、初めて5種目1会場開催となった甲子園での全日本選手権にも出場し、全種目に優勝しました。

当時のクラムは全仏で3連覇し、ウィンブルドン、デ杯で、米国のバッジと名勝負を演じていました。ところがナチス政権に非協力的であったことなどから、1938年以降は数々の報復措置を受けることとなりました。

なお、日独伊三国同盟条約が締結された1940年10月には三国による交歓戦が計画され、ヘンケル、ギースが来日しました。しかし、戦況厳しいイタリアからは選手が派遣されませんでした。

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甲子園での交歓対抗戦プログラム表紙

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開会式での両国選手団

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ホルンのプレー

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左から、山岸、布井、クラム、ヘンケル

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クラムのプレー

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ヘンケルのプレー
2 ユーゴ選手も全日本で優勝
東亜競技大会はフィリピン優勝
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1939年11月、日本庭球協会の招きで、ユーゴのデ杯選手フランヨ・プンチェッツ、フランヨ・ククエヴィッチが来日し、参加した第18回全日本男子選手権大会(甲子園)で単複に優勝しました。

1940年6月には、紀元2600年奉祝東亜競技大会に参加するため、フィリピンのアンポン、サンチェス、カルモナ、デイー(監督兼務)が来日し、東京大会で日本、満州国(当時)を破って優勝しました。

中野文照、鶴田安雄を擁する日本としては思いがけない敗北でしたが、弱冠19歳の小柄なアンポンが見せた確実で頭脳的なプレーは強く印象に残りました。

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1939年全日本選手権優勝者。右から、ダブルス優勝杯(摂政宮杯)を持つククエヴィッチ、シングルス優勝杯(紐育杯)を持つプンチェッツ、そして女子シングルスの加茂純子、女子ダブルスの木全豊子と澤田佳、混合ダブルスの山内と鵜原謙造たち優勝者

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活躍したアンポンとフィリピン選手団。左から、アンポン、カルモナ、サンチェス、デイ
3 新しい時代の幕開け 米国からラーセン、リチャードソン
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第二次世界大戦のため1940年以来中断されていたデ杯が復活したのは、1946年でした。日本とドイツの除名も、1950年7月の国際ローンテニス連盟総会で解除され、両国は国際テニス界に復帰します。

1951年7月、再びデ杯に参加することになった日本(監督:熊谷一彌、選手:隈丸次郎、中野文照、藤倉五郎)は空路アメリカに向かいましたが、初戦で米国に圧倒されてしまいました。

10月には、日本庭球協会/朝日新聞社の招待を受けた米国のデ杯選手アーサー・ラーセンと全米ジュニア・チャンピオンのハミルトン・リチャードソンが羽田空港に飛来しました。戦後日本初の本格的な国際試合となる日米庭球大会は、東京、名古屋、大阪、福岡で行われています。

ラーセンは、11月に開催された第26回全日本男子選手権大会(名古屋栄町コート)にも出場します。彼はシングルス決勝で隈丸に敗れましたが、隈丸と組んだダブルスでは中野/藤倉を破って優勝しました。

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歓迎を受けるラーセン(左)とリチャードソン

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日米庭球大会(大阪扇町プール特設コート)での中野(左)vs.リチャードソン
4 世界最高峰プロ4選手に学んだ近代テニスの基本と個性
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1954年9月、読売新聞社の招待で、ジャック・クレーマー(米国)、パンチョ・ゴンザレス(メキシコ)、フランシスコ・“パンチョ”・セグラ(エクアドル)、フランク・セッジマン(豪州)のプロテニス一行が来日し、プロテニスの「世界庭球選手権大会」を東京、大阪、福岡、名古屋、札幌、横浜、仙台で行いました。

10月16日東京大会(田園)には、皇太子殿下、義宮殿下、清宮さまもおそろいで姿をみせられ、熱戦をご覧になりました。

また、10月1日には関西若手陣(松岡、小林、柴田、石黒、高石、中村)、15日には関東学生選手(宮城、加茂公成、高山、吉村、岡留、芥川、伊藤、村上、杉村、宇田川、中野、大地、橋本、森、佐藤、印東、向井、西郷、桜井、二宮)がプロ4選手のコーチを受けています。

まずは正確に打ってチャンスをつくること、動きをコンパクトにしてスピードを生み出すこと、サービスを使い分けること、個性を磨くこと、そして合理的な練習をすることなど、トップ選手たちが伝えた近代テニスの要点は若い選手たちの成長の糧となって脈々と受け継がれてゆきました。

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来日4選手によるダブルス試合の模様

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東京銀座に掲げられた歓迎の看板

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読売新聞社が製作した記録フィルムのタイトル

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ジャック・クレーマー(米国)のプレー

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パンチョ・ゴンザレス(メキシコ)のプレー

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フランシスコ・“パンチョ”・セグラ(エクアドル)のプレー

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フランク・セッジマン(豪州)のプレー


☆付録☆
「年譜:世界の潮流と近代日本テニス~来日選手たちに学んだこと~」(PDF文書)
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