日本テニス国際化の時代
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西海岸へテニス遠征したハーバード大学学生D.F.デビスたちが、チーム対抗戦によるスポーツ交流の可能性を実感して東海岸に戻ったのは1899(明治32)年のことだった。かねてより国別対抗戦を構想していた米国庭球協会のJ.ドワイト会長は、デビスが寄贈した大きな銀製カップ(International Challenge Cup)の争奪戦を英国テニス協会に申し込み、翌1900年には米国ボストンで、初めての国別対抗戦(the International Lawn Tennis Championship、デ杯)が行われることとなった。
1912(明治45)年2月、東京ローンテニス倶楽部の朝吹常吉(前列右から2人目)、山崎健之丞(前列左から2人目)らがマニラの東洋選手権大会に参加。初のテニス選手海外遠征
この頃、日本でも高等師範学校(高師。現、筑波大学)と高等商業学校(高商。現、一橋大学)の間で庭球(テニス)の対抗戦が始まり、庭球は次第に全国に普及していく。しかし使用球は、安価で入手しやすい軟球(ゴムボール)だった。
一方、国内でも硬球(布でカバーされたテニス専用ボール)を使っていたのは、在留外国人や海外留学経験のある人々で、デ杯が始まった時期には永田町1丁目(現、国会議事堂のある場所)に東京ローンテニス倶楽部を発足させている。やがて1912(明治45)年2月には、前年の倶楽部チャンピオンであった朝吹常吉(29才)と山崎健之丞(28才)らが、マニラのカーニバル祭行事として開催されていた東洋選手権大会(the Championship of the Orient)に参加した。日本人テニス選手初の海外遠征である。ふたりとも慶應義塾の出身で、朝吹はイギリスに留学し、三井物産ニューヨーク支店に勤務後、実業家となっていた。
当時のフィリピンはアメリカ合衆国の統治下にあったから、アメリカ本国からマニラでのトーナメントに参加する米国トップテン・クラスの選手が毎年2名ほど、往復の途中、日本に立ち寄って妙技を披露するようにもなっていく。アメリカ西海岸~日本は片道約12日間、日本~マニラは約4日間の船旅だった。
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慶應庭球部の
レギュレーション採用と
熊谷一彌 |
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1914(大正3)年、慶応義塾庭球部の熊谷一彌(中列右から2人目)らがマニラの東洋選手権大会に参加。初の学生テニス選手海外遠征
前年に三大学対抗戦を制覇して事実上の国内トップとなった慶應義塾体育会庭球部がレギュレーションとも呼ばれていた硬球の採用に踏み切ったのは、1913(大正2)年2月のことだった。ダブルスによる団体戦が主だった軟球に対して、硬球ではシングルスが主になる。必要なコート面数、輸入品のボール代、対戦相手など課題は多かったが、慶應義塾の先輩であり、東京ローンテニス倶楽部会員でもある山崎、福沢大四郎らOBが支援することになった。倶楽部の名誉書記(現、理事長)には、朝吹が就いている。それまで外国人が運営の主体となっていた倶楽部では、初の日本人名誉書記であった。
倶楽部の払い下げボールを使い、時には倶楽部に招かれて練習していた慶應庭球部員の中には熊谷一彌がいた。左利きの熊谷は、横浜の外人倶楽部や、東京ローンテニス倶楽部との対抗試合でも強気のストロークで連勝する。
同じく1913年3月には、各国を統轄する12のテニス協会代表がパリに集まり、国際庭球連盟(現、国際テニス連盟。ITF)を発足させている。当初の参加協会は、オーストラレシア(Australasia。オーストラリアとニュージーランドを統轄)、オーストリア、ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、英国、オランダ、ロシア、南アフリカ、スウェーデン、スイスであった。米国は正式参加を保留している。
1914(大正3)年1月、熊谷は野村祐一、市川重二、三嘴進ら慶應庭球部員とともにフィリピンに遠征し、マニラ庭球倶楽部主催東洋選手権大会(the Championship of the Orient)に出場、シングルスで準決勝、野村と組んだダブルスで決勝に進出した。
優勝は米国から派遣されたビル・ジョンストン(William M.Johnston。1914年米国ランキング6位)、E.フォットレル(同、10位)らが獲得するが、熊谷らの健闘はマニラの観客に強い印象を残し、在留邦人の名声を挙げることとなった。
1915(大正4)年5月、上海で行われることとなった第2回東洋オリンピック大会(翌年から極東選手権大会)には中国が200名余、フィリピンが90名余の選手団を派遣したが、この年は日中間に二十一ヵ条問題の紛争があり、日本からは10数名のみの派遣となった。この中で熊谷はシングルス、および柏尾誠一郎(東京高商出身、三井物産上海勤務)と組んだダブルスで優勝する。