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ミュージアム:日本テニス国際化の時代

日本テニス国際化の時代

8 第1回全日本選手権開催、
国際庭球連盟に加盟
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初参加デ杯チームの成果は、チャレンジ・ラウンド進出だけではなかった。デ杯運営の取り決めにより、デ杯収入の分与金42,080円(現在の約1億5千万円)が米国庭球協会より送金されてきたのだ。まだ収入基盤のない協会はこれを主に海外選手派遣費に充当することとし、両選手の功績を記念してKS杯東西対抗戦の開催を決めた。カップ名に冠せられたKSは両選手のイニシャルである。

11月に帰国した清水は、摂政宮殿下(皇太子、のちの昭和天皇)に招かれ、宮城千代田倶楽部に特設されたコートで試合をした。殿下も、およそ6ヶ月間のヨーロッパ巡遊から9月に帰国されたばかりだった。翌年4月に帰国した熊谷も、新宿御苑新設コートで台覧試合の栄誉を受けている。

1922(大正11)年3月には、神田の基督教青年会館で日本庭球協会の発会式が行われた。初代会長には朝吹常吉が就任し、関東、関西、九州に支部が成立したが、熊谷が帰国したため選手が揃わず、デ杯は棄権した。

この年、日本テニス界には明るい話題がつづく。5月、三年町(現、霞ヶ関3丁目)に移転して西洋風クラブハウスの完成を祝ったばかりの東京ローンテニス倶楽部で、日本オープン選手権が行われた。夏恒例となったジャパンタイムズ社主催の軽井沢オープンも盛況だった。

9月には、東京帝大コート(現、東京大学御殿下グラウンド)で、第1回全日本庭球選手権が開催された。男子シングルス優勝の福田雅之助には、デ杯チャレンジ・ラウンド進出を記念してニューヨーク日本倶楽部から贈られたニューヨーク杯が、ダブルス優勝の川妻柳三/安部民雄には摂政宮杯が授与された。
1922年9月、第1回全日本選手権大会シングルスで優勝した福田雅之助と優勝杯(ニューヨーク杯)
1922年9月、第1回全日本選手権大会シングルスで優勝した福田雅之助と優勝杯(ニューヨーク杯)
1923(大正12)年、米国庭球協会が国際庭球連盟に正式加盟した。また、18ヶ国が参加したデ杯は、アメリカン・ゾーンとヨーロピアン・ゾーンに分かれ、インター・ゾーンの勝者がカップ保持国米国に挑戦することとなった。日本からは熊谷と福田が派遣される予定となったが、熊谷が固辞したため、高田商会ニューヨーク勤務となった福田が渡米して、三井物産ニューヨーク勤務となった清水や柏尾とチームを組み、アメリカン・ゾーンに参加している。5月には、大阪で極東選手権が開催された。9月1日の関東大震災の際には、ニューヨーク在留テニスマンによる被災支援チャリティー・マッチが行われ、チルデンらも参加した。

1924(大正13)年には、前年の第2回全日本選手権に優勝した原田武一がデ杯チームに加わることとなった。3月には、日本庭球協会が、パリに本部を置く国際庭球連盟に加盟している(注2)。5月には、第1回全日本女子庭球選手権が東京ローンテニス倶楽部で行われた。

7月、第8回オリンピック・パリ大会には、陸上競技8名、水上競技6名、レスリング1名、そして庭球4名、計19名の選手団が参加することになった(注3)。庭球は在米の福田、原田、在インドの岡本忠、日本から太田芳郎の4名が参加することになっていたが、太田が途中病気のため不参加となり、代わりに在香港の本田朝次が参加した。原田はシングルスで準々決勝に進出している。この年より、冬季大会が独立して開催されるようになった。

日本でもグラビア・スポーツ専門誌やテニス専門誌が発刊されるようになり、スポーツが社会に浸透していった。
(注2)『日本庭球協会十年史』(1932年刊、12頁記載)、「国際庭球聯盟書類綴 大正十三年」(日本テニス協会所蔵)、『75 Years of the International Tennis Federation 1913-1988』(1988年刊)に拠る。

(注3)『スポーツ八十年史』(1958年刊、日本体育協会)に拠る。

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