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いま甦るニューヨークカップの記憶1

1 黄金時代のニューヨーク
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1920年代、第一次世界大戦が終わって間もないニューヨークは活気に満ちていました。イギリス、アメリカ、フランス、イタリアに並んで五大国の一員となった日本の企業も、世界経済活動の中心となっていたニューヨークの拠点を強化するようになります。

日本のテニス界も国際化を急いでいました。テニスは、国際交流を橋渡しする手段でもあったのです。海外経験のある経済人たちは、慶應義塾大学庭球部で実力を発揮しはじめていた熊谷一彌を、米国テニス行脚に送り出すことにします。初渡米だった熊谷の先導役は、早稲田大学庭球部OBで米国留学経験のある三神八四郎でした。

卒業後も三菱合資会社銀行部に入社し、1918(大正7)年からニューヨーク勤務となった熊谷は、全米ランキング・ベストテンの常連になります。1919年には3位となりました。

翌年の第7回オリンピック・アントワープ大会に派遣された熊谷はシングルス、そして柏尾誠一郎(東京商大OB、三井物産ニューヨーク勤務)と組んだダブルスでも準優勝して、日本初のオリンピック・メダルを獲得しています。

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1920年アントワープ・オリンピック大会で入場する日本選手団。後方の左に熊谷、柏尾の姿


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1920年ウィンブルドン大会でチャレンジラウンド決勝に進んだ清水善造とヨーロッパ遠征で彼が獲得したカップ類
同じく1920(大正9)年、インドで活躍していた清水善造(東京商大OB、三井物産カルカッタ勤務)もヨーロッパに遠征し、ウィンブルドン大会ではチャレンジラウンド決勝(前年度優勝者への挑戦権決定戦)に進出してテニス界の注目を集めていました。国際テニス界での日本選手活躍は日本にも伝わり、従来一般的だった軟球使用から、国際ルールによる硬球使用のテニスに転換する大学が増えます。
2 日本庭球協会の設立と
デ杯初参加
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内外人が集う東京ローンテニス倶楽部の名誉書記であり、三井系の実業家でもあった朝吹常吉が、磯子夫人とともに欧米回遊の旅に出たのも1920年でした。そして11月、ニューヨークに戻った朝吹は、熊谷らと相談し、米国ローンテニス協会のJ. S. マイリック会長ら主立った人々をホテルに招いて会食することにします。機は熟していました。日本を代表する協会を設立すれば1921年のデビスカップ争奪戦(世界の国地域別対抗戦)から参加できるという話しになり、実務的な準備も進みます。

帰国後の朝吹は関東、関西の関係者に働きかけ、翌年3月には日本庭球協会を仮発足させてデ杯参加の申し込みをしました。推されて、初代会長も引き受けています。

1921(大正10)年、熊谷、清水、柏尾の初参加デ杯日本チームは1、2回戦不戦勝のあと、3回戦でインド、4回戦でオーストラリア(ニュージーランドとの連合)を破り、前年度の覇者米国に挑戦するチャレンジラウンドに進出します。

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1920年11月、米国庭球協会関係者とデ杯参加要件の打合せをする朝吹常吉
3 フォレストヒルズの晴れ舞台
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W. T. チルデン、W. W. ジョンストンを擁する米国チームは、前年度にオーストラリアよりデビスカップを奪還したばかりでした。9月2日、試合会場となったニューヨークの名門ウエストサイドテニス倶楽部スタジアム(通称、フォレストヒルズ)には、争奪戦の発起人でもありカップの寄贈者でもあるD. F. デビス氏も姿を見せ、6年振りに米国チームが持ち帰ったカップと、さらに追加して歴代チャレンジラウンドの記録を刻むために新しく製作された銀の受け皿が披露されました。スタンドを埋めた12,000以上の観客の中には各国デ杯チームや、渡米中だったスザンヌ・ランランなど女流有名選手たちの姿も見られました。

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1921(大正10)年、デ杯チャレンジラウンドのプログラム表紙と、対戦表の一部。表紙には参加国の代表旗が配されている。当時の日本チームは旭日旗と日章旗を併用していた


ニューヨーク在留日本人たちにとっても、久しぶりの晴れがましい舞台でした。スタンドの上には、日米の国旗が勇ましくひるがえっています。米国西海岸での日本人移民問題や東アジアでの領土問題など日本への批判も、この日ばかりは関係ありません。ニューヨーク日本倶楽部(the Nippon Club)の会員たちも応援にかけつけていました。倶楽部は、日米交流と在ニューヨーク日本企業人の親睦を目的とし、1905(明治38)年に創設された社交クラブです。

New York Times紙(1921年9月3日付)に掲載された主な観戦者名のなかには「A. Takahashi, M. Miho, B. Mitsui, Mr. and Mrs. Tajima, Mr. and Mrs. Minagawa, Mr. and Mrs. Naganuma, and Messrs. Kashiwagi, Nagaike, Onishi, and Konazaki 」(明かな誤記を訂正して引用)ら日本人の名前が見られます。

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1921(大正10)年、デ杯チャレンジラウンドにのぞむ日本チーム。左から、清水善造、柏尾誠一郎、熊谷一彌


3日間にわたる対戦は、第1日第2試合で清水がチルデンをあと2ポイントの瀬戸際まで追い詰め、第2日のダブルスも接戦となって観客を沸かせました。結果としては0-5で米国チームがカップを保持することとなりましたが、初陣日本チームの実力を世界に示すことができたのです。

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1921(大正10)年、デ杯チャレンジラウンド第2試合シングルス、チルデンに挑戦する清水善造。第3セット、清水はマッチポイントまであと2ポイントの瀬戸際まで追い詰めたがチルデンに挽回された

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