W. T. チルデン、W. W. ジョンストンを擁する米国チームは、前年度にオーストラリアよりデビスカップを奪還したばかりでした。9月2日、試合会場となったニューヨークの名門ウエストサイドテニス倶楽部スタジアム(通称、フォレストヒルズ)には、争奪戦の発起人でもありカップの寄贈者でもあるD. F. デビス氏も姿を見せ、6年振りに米国チームが持ち帰ったカップと、さらに追加して歴代チャレンジラウンドの記録を刻むために新しく製作された銀の受け皿が披露されました。スタンドを埋めた12,000以上の観客の中には各国デ杯チームや、渡米中だったスザンヌ・ランランなど女流有名選手たちの姿も見られました。
1921(大正10)年、デ杯チャレンジラウンドのプログラム表紙と、対戦表の一部。表紙には参加国の代表旗が配されている。当時の日本チームは旭日旗と日章旗を併用していた
ニューヨーク在留日本人たちにとっても、久しぶりの晴れがましい舞台でした。スタンドの上には、日米の国旗が勇ましくひるがえっています。米国西海岸での日本人移民問題や東アジアでの領土問題など日本への批判も、この日ばかりは関係ありません。ニューヨーク日本倶楽部(the Nippon Club)の会員たちも応援にかけつけていました。倶楽部は、日米交流と在ニューヨーク日本企業人の親睦を目的とし、1905(明治38)年に創設された社交クラブです。
New York Times紙(1921年9月3日付)に掲載された主な観戦者名のなかには「A. Takahashi, M. Miho, B. Mitsui, Mr. and Mrs. Tajima, Mr. and Mrs. Minagawa, Mr. and Mrs. Naganuma, and Messrs. Kashiwagi, Nagaike, Onishi, and Konazaki 」(明かな誤記を訂正して引用)ら日本人の名前が見られます。
1921(大正10)年、デ杯チャレンジラウンドにのぞむ日本チーム。左から、清水善造、柏尾誠一郎、熊谷一彌
3日間にわたる対戦は、第1日第2試合で清水がチルデンをあと2ポイントの瀬戸際まで追い詰め、第2日のダブルスも接戦となって観客を沸かせました。結果としては0-5で米国チームがカップを保持することとなりましたが、初陣日本チームの実力を世界に示すことができたのです。
1921(大正10)年、デ杯チャレンジラウンド第2試合シングルス、チルデンに挑戦する清水善造。第3セット、清水はマッチポイントまであと2ポイントの瀬戸際まで追い詰めたがチルデンに挽回された