写真が語る日本テニス史 【昭和20(1945)年】~
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日本庭球協会の再発足、デ杯復帰
【昭和20(1945)年】
1951年日本チーム。左より、隈丸、藤倉、熊谷、中野
8月15日、終戦。畑になっていたコートにも活気が戻ってきます。11月には日本庭球協会の再興総会で勝田永吉が再び会長に選任され、協会は活動を再開することになりました。戦後しばらく除名されていた国際庭球連盟には、1951年からのデ杯復帰が認められます。13年ぶりに北米ゾーンに参加して米国チームと対戦した日本チーム(監督:熊谷一彌、選手:隈丸次郎、中野文照、藤倉五郎)はブランクの大きさを実感しました。デ杯復帰後は海外協会との交流も次第に多くなります。また、1954年には読売新聞社の招きで米国からJ.クレーマーら男子プロ4選手が来日し、最先端のプレーを披露していきました。
デ杯東洋ゾーン決勝、東京で開催
宮城・加茂組は全米ダブルスで優勝
【昭和30(1955)年】
念願のデ杯東洋ゾーンが実現し、日本対フィリピンの決勝が東京で行われました。日本で初のデ杯開催です。日本チーム(監督:原田武一、選手:宮城淳、加茂公成)はF.アンポン、R.ディロを柱とするフィリピンを破りました。その後、米国で行われたインターゾーン準決勝ではオーストラリアを越えることはできませんでしたが、米国各地の大会で好成績をおさめ、全米ダブルスで優勝しました。戦後日本選手の海外経験がようやく実った結果とも言えるでしょう。
デ杯の慣例により、首相官邸での組み合わせ抽選が鳩山首相によって行われた
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宮城・加茂組対アンポン・ディロ組では比チームが勝つ
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ゾーン優勝を決めてアンポンと握手する加茂
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1955年全米ダブルスで優勝した宮城・加茂組
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加茂幸子を海外派遣
宮城黎子の連勝記録
石黒修の飛躍
【昭和27(1952)年】
飛行機で旅する時代、選手の活躍の場が海外に広がります。国内のテニス環境も整ってきました。
日本人女子選手として初めて全米選手権(1952年初)、全英選手権(1954年初)に参加した加茂幸子
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1952年以来、全日本選手権でシングルス10回(8連覇含む)など最多優勝記録を達成した宮城黎子
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1958年にデ杯チーム入りした石黒修は前向きのテニススタイルを貫き、のちに戦後初の男子プロとなった
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皇室のロマンス
テニスブーム到来
【昭和33(1958)年】
コートでの皇太子殿下と美智子様。ともにストローク主体の正統派プレーヤー
軽井沢でのテニスを通じて結ばれた皇太子殿下と正田美智子様の婚約は国民の共感を呼び、テニスブームのきっかけになりました。