写真が語る日本テニス史 【昭和42(1967)年】~
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ユニバーシアード男子単
ベスト4独占
【昭和42(1967)年】
表彰台に立つ、左から、神和住純(銀)、渡辺功(金)、黒松秀三郎(銅)
東京・国立庭球場で行われたユニバーシアード大会に参加した16ヵ国の中で日本の4選手が最後までメダルを争いました。
重ねた努力、実った夢
沢松和子がウィンブルドン・ダブルス優勝
【昭和42(1967)年】
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1969年、ジュニア時代、全仏Jr、全英Jrで優勝
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1973年、全豪準決勝でグーラゴンに惜敗
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1975年、全英ダブルス優勝
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第40回全日本女子庭球選手権シングルスに優勝したとき16才だった沢松和子は、1969年に全仏と全英ジュニアで優勝して世界レベルの実力を示しました。1970年からはフェデレーション大会日本チームの柱として6年間に44勝10敗の成績をあげています。
1974年、戦後日本女子初のトーナメント・プロになった年、ジャパンオープン準決勝でM.ブエノに敗れて7年7ヵ月に及ぶ国内連勝記録192はストップしましたが、翌年にはアン清村と組んで全英ダブルスに優勝し、テニスブームを社会に定着させています。
デ杯東洋ゾーンAセクション決勝
50年ぶりにオーストラリアを破る
【昭和46(1971)年】
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歓びの日本チーム
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スコアボードが示す第3セット。第14ゲーム、マッチポイントをスマッシュで決めた瞬間の坂井選手
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1968年、オープン化の波が世界に広がりました。しかし、アマチュアの牙城だったデ杯が完全にオープン化されたのは1973年です。その間の1970年、オーストラリア・チームは東洋ゾーンに参加して日本チームを5-0で破ります。
翌71年、再び対戦することになった渡辺康二監督はシングルスに柳恵誌郎、坂井利郎を起用して幸先の良い2勝を上げたものの、小浦猛志・河盛純造組のダブルスと第4試合シングルスは落としてしまいます。最終試合、J.クーパーに対した坂井は第1セットを先取したものの第2セットで競り合い、10-10で日没中断となります。しかし翌日再開後は冷静な判断とオールラウンドなプレーでセットを決め、そのままの勢いで日本チームに勝利をもたらしました。
対オーストラリアの勝利は、1921年以来、50年ぶりの快挙でした。
神和住純、プロの道へ
【昭和48(1973)年】
1974年、WCT緑グループ東京大会での神和住
全日本選手権3連覇を達成したばかりの神和住純は、プロ選手として海外を転戦する道を選びました。
戦後初のトーナメント・プロです。つづいて九鬼潤もプロ声明を発表しました。